初恋 【スゴろくnote!】
僕の住んでいる街は戦争時代、いわゆる「赤線」と呼ばれていた地域だった。もちろん今は違うけれど当時の名残で、迷路のような細い路地を入っていくと、間口2間ほどの狭い二階建ての小さな店がビッシリと並んでいた。
一見、住居付きの小さな飲み屋のようだけど、一階の飲み屋で気に入ったホステスの娘がいたら、店のママに『特別料金』を支払って二階の部屋で……という仕組みらしい。
『連れ込みスナック』とでも呼べばいいのか。
そういう店は経営者の高齢化と時代の流れで、今はほとんどなくなったと聞くけれど、僕が高校生位の頃までは確かに営業していたように思う。
そして、路地の前の表通りには、ひと目でソレと分かる若い女が、自分の客を引くために立っていたりしたものだ。
もちろん、それは今だから分かる話なのだけれど。
僕の生家の道路を挟んで向かいの奥。ラーメン屋とクリーニング屋にある路地を入った右手にもL字型の小路があって、『連れ込みスナック』が立ち並んでいた。
黴臭い路地の入口には、古臭い電光看板が、両側の店をつなぐ太鼓橋みたいに吊られていて、角の方が割れて穴があいたプラスティック製のその看板にはペンキの青が掠れた文字で『いなり小路』と書かれていた。
その小路の入り口に、一体誰が建てたのか知らないけれど、犬小屋ほどの小さな社があって狐様が祀られていたから、「いなり小路」は多分、その社から付いた名前なのだろう。
まだ小学生低学年だった僕にとって、その迷路のような小路は絶好の遊び場所だったし、おばあちゃん子だった僕は、もう一つの遊び場だった公園の中にある神社の頓宮にも毎日お参りするような信心深い子供でもあった。
まぁ、そのお参りさえも「ごっこ遊び」の範疇だったのだけれど。
だから「いなり小路」で遊ぶ時は、その犬小屋みたいな小さな社にも手を合わせていたのだ。
夕方の4時くらい、家に帰る時も同様で、お稲荷さんに手を合わせてから帰るのが、その頃の僕にとってのブームだった。
昼間は、死んだように静かな稲荷小路の店々も、夕暮れの時間になると、1軒また1軒と息を吹き返し、小路の入り口付近に若い女が立っているのを何度も見かけた。
彼女たちはみな、毒々しい原色のワンピースを着て、細くて長いタバコを咥えながら、僕のような子供や行き交う大人たちと目を合わせないように視線を上に向けて、所在なさげに立っていたものだった。
そんなある日、僕がいつものように稲荷神社にお参りしていると、不意に後ろから声を掛けられた。
「ねえ、ぼく」
驚いて僕が振り返ると、そこには深紅色のワンピースを着た若い女が立っていた。
二十歳くらいだろうか? いや、随分昔だったから、まだ未成年だったのかもしれない。
細面でつり目。色が白く、細身でしなやかな身体の美人。
口元と目尻に薄く紅を挿した彼女の顔は、どこか狐の面を思わせた。
「お姉さんと、遊びに行かない?」
名も知らない彼女は、僕にそう言って薄く笑いかけた。
物語の中の狐が、純朴な村の衆をからかっているような、そんな楽しげな笑顔。
まだ、売春はおろかセックスの意味も知らない子供だった僕だけれど、彼女の言う「遊び」のニュアンスが、僕らが言うソレと違うことは本能的に察したし、同時に、狐の化身のような彼女について行ったら、二度と家には帰れないのではないかという恐怖心もあった。
犬小屋のような小さな社に閉じ込められて、二度と出られないのではないかという恐怖。
「もう、ばんごはんだから」
僕は、そう言って一目散に逃げだした。
走る僕の後ろで彼女は、嗤っていたのかもしれないし、傷ついていたのかもしれない。
あのとき彼女は僕に「遊ばない?」ではなく「遊びに『行かない?』」と言ったのだ。
そのたった二文字の小さな違いが、今も僕の心の中に、小さな棘のように刺さっている。
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ゆこびん https://note.mu/yucovin のお題。
『初恋をテーマに』用に書きました。
半分実話で半分フィクションです。
僕が子供だった頃って、まだまだ戦中戦後の残り香みたいなのが、わりと色濃く残ってたんですよね。
最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。
楽しんでいただけたら幸いです。
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