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男子校出身者の精神未熟の多さ


私、ぷんすこ太郎は関西地方の中高一貫男子校出身です。人格形成にとくに重要な10代の6年を異質な環境ですごしたことで、大学入学と同時に、自身と自身のいた環境のいかに世離れしていたかを痛感せらるところとなりました。言葉をえらばずにいえば、男子校へ通ったことで得られたものは多い一方で、失った(得られなかった)ものもまた多いのでした。

今回はその「男子校」とは一体何だったのか振返りをしたながら、男子校通学のポジティブ・ネガティブ両面を検討し、けっきょく自分は男子校を人にお勧めするのか、自分は男子校を人にどう説明するのかについて、少しばかり考えてみたいとおもいます。

男子校通学のポジティブ側面

個性の涵養

男子校において、とうぜん男子生徒のみの校内は誰も人の目を気にしない空間であり、 生徒は各々の個性を(良いと悪いとを別にして)大いにのばし生き生きと日々をすごします。男子校では女子生徒の目がないことで好きなことに集中できる、との一般評は誤りではなく、彼らは女子生徒のいないことでほんらいの趣味趣向を何にも(誰にも)妨げられることなく研鑽することができ、特長をのばせやすいのです。彼らの興味関心の向く先は多岐にわたります。先輩には在学中に IT 知識を教師に認められ校内のイーサネットを整備し、今では日本で最も有名なプログラマーとして活躍する卒業生がいます。母校では伝統的に医学部やその他理科系へ進学する者が多いものの、ぎゃくにそのような王道を選択しなかった者は特殊な進路選択をするケースも少なくありません。それはアメフト選手からアナウンサー、YouTuberまで多種多様です。

独創性・探求力

男子校では、何か共同で物事を企画したり作品をつくったりする際に、女子生徒の感性や要望の入らないことで、ある種独創的といえるものができあがることがあります(これはもちろん、女子生徒がいると独創的でない、と言っているのではありません)。少なくとも筆者の母校では多くの生徒が何かをつくる際に体裁よりもユーモアを重視し、いかに面白いものをつくるか、いかに見る人に笑ってもらえるかに優先順位を置き考える文化がありました。それはすなわち全員がそれぞれいかに「人と違うもの」を作るか考えを巡らせていることを意味し、結果独創性の自然と磨かれるところとなったのでした。

また前項でも述べたとおり、男子校では傾向として理系を選ぶ生徒が多いです。理系学部にすすめば多くのばあい研究室に配属され大学院まで進学します。そこで発揮されるのが男子校時代に培った「探求力」なのです。先にも述べたが、 男子校では女子のいないことで、偏向的な趣味趣向でも深く研鑽できやすい。これは勉強じみたものにかぎらず、音楽やスポーツなど実用趣味のような分野にもあてはまります。男子校の環境ではほとんどの場合どの生徒も6年のうちで何かに夢中になる経験があり、 その際の熱中の経験や、自ら決めた目標を達成しようとする内発的かつ自然な努力の感触が先の人生で役立つ場面は少なくありません。よって、とくに理科系の研究においては男子校にて何かに熱中した経験は大いに役に立つことがあるといって良いと思います。

競争力

自分は競争がきらいで、何かにつけ子どもを競争させる大人もまたきらいです。しかし自分をのぞいては、男子校において「競争力」が身につけられるという言説は間違いでないといえます(しかしこれは一定水準以上の「進学校」によくあてはまることで、 そうでない校の状況は私は把握していないと断っておきます)。ではなぜ競争力が男子校で培われるか。その答えは、彼らの根底に横たわるシビアなヒエラルキー的優劣意識にあるのです。自分の母校は世間的にはいわゆる「進学校」で、例年受験シーズンの終わると同時に書店に並ぶ「〇〇大合格者数ランキング」などにはよく載る学校でした。そのため校内は基本的に生き馬の目をぬく競争社会であって、定期試験では毎度当然のように自らのこまかい順位や偏差値を知らしめられ、ときに優秀者は氏名や点数が貼りだされました。また関西という土地柄か教室はつねにユーモアセンスの問われる空間であったことで、学年やクラス内でのヒエラルキーは自然に「成績のよさ×面白さ」で決まっていきました。ヒエラルキーはすなわち人望や発言力のピラミッドであり、残念なことに低い位置に見られている者は教師にも生徒同士にも軽んじられる傾向にあります。つまるところ、基本的にはどこのクラスでも自然発生する「自分がより賢くより面白く」といった競争により、競争力が(好むと好まざるとにかかわらず)育まれる結果になったのでした。


男子校通学のネガティブ側面

精神的未熟

ここからは男子校通学のネガティブ側面です。なによりもまず「精神的未熟」があるでしょう。これは言わずもがな、女性のいない環境で12歳から18歳までをすごしてしまう少年らにとっての最大の悲劇です。

高校入学のない中高一貫校で入学から卒業まで同じ顔ぶれで過ごす場合はなおさらで、彼らは中学1年というよりも小学7年というべき入学時から、 そのまま小学校の延長のような6年をすごすことになります。それでも年齢に応じて成長はするものの、男女共学校の男子生徒とくらべ中学3年時点ですでに顔つきや落ち着きといった外面のみならず、発言や他者への理解・尊重など心理面においても有意な差がみられます(これは私が2年ほど中学生対象の塾講師をしていた経験によります)。

いわゆる「難しい年頃」において、おおむね共学校の生徒がかかえる「難しさ」とは1に異性関係、2に友人関係、3に家庭内での摩擦です。しかし同年代の男子校生徒のかかえる「難しさ」とは1に母親との関係、2に父親との関係、3にして学校成績なのです。つまり男子校生徒にとっては異性関係で悩むことも友人関係で悩むこともほぼまったく経験の外にあります。彼らが青春で何よりも頭を悩ませるのは、成績悪化により母親に没収されたゲーム機の奪還か、ベッドに置き忘れた、父親の財布から失敬した金で買ったiPodの安否なのです。

異性理解の不足

ネガティブ面のふたつ目に「異性理解の不足」を挙げます。心理的にも身体的にも変化のおおくおとずれる「サナギ」の時期を、男子校生は女性のほとんど居ない環境で経験します。すると当然ながら心理的にも身体的にも異性を理解したり、忖度したりすることが難しくなるのです。筆者の母校では男性の心身の成長については熱心に時間を割かれ教えられたものの、女性のそれに関して正面から教えられた記憶はほぼありません。保健体育の教員は全員男性であり、性について学ぶ単元は教師が生徒の冷やかしを鬱陶しがって適当にすませていた記憶すらあります。

また、深刻なのは「異性をよく理解すべき」ということ自体を認知しないままに卒業し、半数が女性で構成される世界へ放りだされるパターンです。自分が何を分かっていないかを分かっていない場合に害を被るのは本人のみに留まりません。彼らは知らず知らずに周囲の他者を傷つける事態を起こし、さらに厄介なことに、多くの場合、自分で自分の問題に気づくことも難しいのです。

また「異性理解の不足」には、男女同権やジェンダーギャップにかんする意識養成が足りていないという問題もあります。少なくとも私の母校では、男女の権利や社会的ギャップの歴史についてまとまった時間を設けられ教えられる機会はありませんでした。そのためもあってか、生徒間では女性蔑視・ミソジニー的な思想が識閾下に蔓延し、女性を性的消費の対象としか捉えない発言・態度にたいして異を唱える空気もなく、それどころか皆で面白がって笑っているのが日常の光景となっていました。


そして結論

ここまで男子校のポジティブ側面とネガティブ側面を検討してきましたが、そもそも今の時代に、男子しか受け入れない学校は自身を正当化していられるのでしょうか。日本のジェンダーギャップ指数の世界的に低いことは知られますが、そんな国の男子校は難しい立場に立たされていそうなものです。ためしに複数の男子校のホームページを訪ね、教育方針や理念を確認してみましたが、書かれていた情報のみでは男子校でないといけない理由・説得力は特段に見あたりませんでした。近年では少子化の煽りをうけ共学化される女子校/男子校が多くありますが、今後も少子化が続くのであればますます男子校の数は減ってゆくであろうし、その正当性も揺らいでいくとおもいます。

それらを踏まえて、自分は男子校を人におすすめするのかと考えました。結論は「理系に進むならまだしも、文系に進みたいなら行かないに越したことはない」です。なぜなら、ポジティブ面に比して余りにもネガティブ面の引力が強すぎて、理系の研究職等であればまだ被害が顕現しにくいものの、文系なら危険度が格段に高まってしまうからです。自分の中高時代からの友人には、良い大学に行っても24歳になっても、言動の幼い者、自立する気の無い者、女性蔑視に凝り固まった者、街中の人を「下民」と呼び、喫茶店で周りのお客さんを不快にさせる者がいます。あなたのご子息は一定確率でそういった人間になります。親が中高生の息子をコントロールできる範囲にも限界があって、あなたが思っているより、男子校生は人間的にロクな大人になりません。ですから、金を稼ぐ能力だけならともかく、いち人間として立派な大人になってもらいたいのであれば、男子校なんかは選ばないに越したことはないのです。

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