激動の時代を生きてきた私と同じ世代の東欧のママたち
色んな人種がいる息子のジャングル学校で、私がとりわけ仲良くしている数人の東欧出身のママたちがいる。なぜ仲良くなったかというと、みんな大酒飲みだからだ(苦笑)ハンガリー人、スロヴァキア人、ジョージア人のママたちとたまに朝息子を送った後にお茶をしたり、夜食事に出かけたりする。みんな同世代で42歳から45歳。学校の話や子どもの話、お互いの家族の話、更年期の話、色んな話をする。そんな中、私が全くついていけない話がたまに出てくる。それはそれぞれの国が社会主義共産主義だった頃の話に、1991年にソビエト連邦が崩壊してからの話だ。
ジョージアでは、91年に急に電気もガスもなくなり、食料配給のクーポンが配られ、1家族2斤のパンのために大行列ができていたことをまだ鮮明に覚えているとジョージア人ママは言う。大人が通りを歩いてぼーっとしていると、政府に連行されて工場で働かされるのが普通だったそうだ。でも良かったことは父親が働く会社のお金でスパリゾートに家族旅行できていたことだと。家族で慰安旅行できるようなスパがたくさんあったそうだ。スロヴァキアでは、ソビエト連邦が崩壊してから町では拳銃ドンパチマフィアの抗争がよく起きていたそうだ。朝2時の列車に乗ってポーランドまで行き、朝5時のポーランドの朝市で洋服を買っていたと。ハンガリーでは今もあるらしいのだが、農地の方に住んでいるとシャワーがないのが普通なので、家の外に水浴び用の水場があり、暑い日はそこで水を桶に汲んで水浴びをするらしい。ジョージアにも同じような水浴び用の水場があるそうで、ロンドンに住んでいる娘はそんなもの見たことがないので「これがシャワー?どうやって使うの?」と聞かれたそうだ。寒い冬にガスもないのは致命的だったと彼女たちは言う。そんな生活が3年も続いたそうだ。
自分が書いた上の文章を読み返しながらも感じるのだが、私が上に書いたことは彼女たちから聞いた話でしかない。だから「そうだ」「らしい」のような文末になってしまう。
第二次世界大戦後みたいな話でしょ?と笑いながら彼女たちは言ってくる。私の両親は団塊の世代で大戦の経験があるのは私の2世代上の人たちになる。両親ですら経験したことのないような生活を彼女たちは送ってきたのだ。だから彼女たちは強くて逞しいんだな。私と全然違うな、と今朝も改めて気付かされたのだった。
面白いことに彼女たちには10歳から15歳歳の離れた弟たちがいる。弟たちを見ると世代の差を感じると言う。社会主義共産主義時代のど真ん中を生きてきた両親、その終わり頃に生まれ生き抜いた自分、そして資本主義に移行してから生まれた弟。物事の考え方が全然違うと言う。
もちろん私が日本の20代の子たち接しても、色々違うな〜と感じることはある。でも、彼女たちはもっとその差を感じるのであろう。そして今日も私はそんな逞しく輝いている彼女たちと飲みに行くのである。
※写真はジョージアのチキンスープ。