「大きなお世話」の原体験
『ONE 〜輝く季節へ〜』というゲームがあった。
90年代後半に流行った、ゲーム性はほとんどなくストーリーを追っていくだけの18禁ビジュアルノベル。18禁なのにエロシーンは添え物程度で、泣き所満載の悲恋ストーリーにテキストの大半を割く、いわゆる「泣きゲー」の初期作品である。
主人公、折原浩平くんは幼いころに妹を亡くし、両親も蒸発してほとんど独り暮らしのような生活をしながら高校に通っていた。そんな彼の前に次々と現れる「口調が変」「カレーを異常に食う」「異常に甘いものを食う」など一癖を持つ奇人女性たち。選択肢によるストーリー分岐で彼女らのいずれかと仲を深めていくと、そのうち浩平くんは「永遠の世界」というよく分からないものに取り込まれはじめ、「永遠はあるよ」という幻聴とともに周囲の人々の記憶から消えていく。
そして現世からその存在自体も薄らいでいく彼を繋ぎ止めるのは、ともにエロシーンを演じた彼女との絆だけ。果たして二人は迫りくる「永遠」に抗い再会を果たせるのか。
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そんなゲームにはまっていた高校時代のある日、僕が6限を終えて校門を出たときには晩秋の短い陽は海の方、黒々と盛り上がる岬の突端まで角度を落としていた。
学校は高台にあった。鮮烈な茜色にやや目を細めながら、長い坂の下の交差点を目指したのを覚えている。
僕が行く直進方向の信号は青。下り坂も相まって自然と足は早まり、その勢いのまま横断歩道へと漫然と踏み出した時、何かを蹴飛ばした。
アスファルトを金属が転がる甲高い音が響く。行き交う人が足を止めるがそれも一瞬で、縁石に転がる無骨な棒を見ると、ビデオの再生がかかったようにつらつらと自らの歩を進め始めた。
僕は何かも分からぬその棒を慌てて拾い上げる。白に塗られた胸丈ほどの杖で、片側には黒いゴムのグリップ、塗装は所々剥げ鈍色が斑に顔を見せている。
周りを見渡すと、動きを止めているのは一つ小柄な影。グレーのカーディガンで夕闇に溶けたような初老の女性が、右手をやや前に差し出しながら佇んでいた。皺の寄った目元は明後日を向き、半開きの瞼から濁った白目が覗く。
「すみません! すみません!」
ここに至ってようやく、この棒がなんなのか、それを使うのはどういう人なのかを理解した。
しどもどした動きで白杖を返すと、彼女は明後日を向いたまま頭を下げる。僕の方は夕日より紅潮しているであろう顔で立ちすくんでいた。
しかしながらそれを相手に見られることはない。白杖の先で地面を撫ぜるカチカチと小刻みな音。そのまま交差点へ向かい、彼女は存外に淀みないリズムで歩き始めた。
杖の音とともに小さな背中が遠ざかる。その向こう側からは、大柄なサラリーマンが無頓着な早足で歩いてくる。僕は咄嗟に走り出し、二人の間に体を入れた。
サラリーマンは怪訝な顔で僕を見ると大股で横に避けていく。老女の方は何に気付くこともなく、真っ直ぐ、とにかく真っ直ぐに僕の脇を抜けていった。
ああ、あんなに枯れ葉のような体が、あんなに真っ直ぐにこの雑多な街を進むしかない。その姿を黄昏に見送るのがあまりに忍びなく、かといって声をかける勇気もなく、僕は半端な足取りで後に続いた。
そこからの道程は僕にとって衝撃を伴うものだった。一本槍のように老女が歩く先には、路駐の車、ふらつく自転車、走る子供、そんな罠があちこちに張り巡らされている。普通の人にとっての日常の光景が、行く道を阻み自由を奪う、これが「障害」であり「不自由」であったのだ。
自然と僕は、周囲から不審視されない程度に、危なそうな自転車や歩行者、変わりそうな信号と、彼女の動線との間を出入りしていた。周りの者は僕を避け、彼女は僕のすぐ後ろで立ち止まる。全て偶然を装い、僕を認識されないように。そうして日の暮れていく住み慣れた街を、未開のジャングルでも行くような緊張とともに歩いた。
ついに太陽は影絵のような街の後ろに消え、帰宅を急かすような濃紺があたりを包んだ。
老女はある小作りなマンションの入り口に向かい、インターフォンを操作し始める。
ここがゴールのようだ。見る者のいない贖罪の旅を終えた安堵に、僕はため息を吐いた。そして来た道へと踵を返しかけたとき、不意に彼女が振り返った。
その目は相変わらず焦点が定まらず、どこに向いているのか分からない。なのに何故か僕は「目が合った」と感じた。そして薄闇の中で表情筋が不器用に動くのが見えた。ぎこちない、笑顔だ。
「ありがとう」
底冷えのする空気に、存外しっかりした声がよく通る。そして頭をそのまま通り過ぎたように言葉の意味が浸透せず、気が付けば僕は振り向いて走り出していた。
帳の下り始めた路地へ折れ、またしばらく走る。息が切れそうになっても走って走って、大通りまで出てようやく足を止めた。
すっかり辺りは夜に落ち、通りは街灯の濡れたような光に染められる。息を整えてゆっくりと歩き出し、人波を縫いながらそぞろな頭で先ほどの言葉の意味を反芻した。
明白だ。老女はずっと僕の行動を認識していた。気付かれていないと思っていたのはこちらだけ。僕の方が盲目だったのだ。
そして盲目の僕よりもよほど詳らかに、彼女は道中に散りばめられた危険にも気付いていたのだろう。その周りで黒子気取りでうろちょろする男子高校生、それを形容する言葉は一つ。そう、僕は「邪魔」だったのだ。
夕焼けを背にした贖罪の旅は、それどころかただ失敗を上積みするだけに終わった。何故一言声をかけられなかったのか。全てを無意味にした下らない自意識を抱えながら呆然と家路を辿り、そして帰って泣きながらみさき先輩で抜いた。
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