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【小説】想い溢れる、そのときに(11)


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第一話とあらすじ





11

 母が休みの日は、なるべく一緒に昼食を取るようにしている。と言っても、私はいつも通り明け方に寝るので、昼ごろに尿意と空腹で起きるだけで特に生活リズムに変わりはない。
 台所から忙しなく聞こえてくる料理の音をしばらく聞きながら、私は次第に増えていく左腕の傷を一本ずつ指でなぞった。東京にいた頃のものは大分薄れてきてはいるけれど、じっくり触ると盛り上がっているのがわかる。昨日のところはまだかさぶたにもなっていなくて、裂かれた皮膚の先が水分を失った落ち葉みたいにカサカサとしていて、その谷底にはまだじんわりと湿り気があった。すでに血液は凝固しているから、このわずかに漏れ出ている体液はどこの何の液体なんだろう。

「起きてる?お昼ご飯、なからできたいね。あんたお箸とか出して。」

 引き戸も開けずに母の大声が台所から突き抜けてきた。パジャマの袖を伸ばして、私はのそのそと布団から這い出た。

「今いくじ?」
「え、ちょうど十二時になるところ。」

 テーブルの上にはすでにお箸もコップも用意されていたので、私は「あんじゃん」と悪態をつきながら、とりあえず冷蔵庫から麦茶を出してそれぞれのコップに注いだ。
 湯気の立ったできたての焼きそばが白い丸皿に乗せられて目の前に置かれると、少し濃いめのソースの香りが顔中にまとわり付く。まだ寝ぼけていた私は、その香りで一気に目が覚めた。

「はぁお腹すいた。食べよ食べよ。」

 一人で合唱コンクールにでも出るかの如く、豊かな声量でいただきますと言ったあと、母はもりもりと焼きそばを食べ始めた。
 私は特に何も言わずに、麦茶をひと口飲んでからゆっくりと焼きそばを口に運んだ。

「あれ、まぁた来てる。」

 しばらくして、母がベランダの方を見ながら言った。私も同じ方を見てみると、下半分のすりガラス越しに、黄土色をした物体がもぞもぞとうごめいていた。

「最近よく来るんさぁ。なんかね、たまにお花置いてくんべ。」

 うごめく黄土色はその場を数回ぐるりと回ったあと、勢いよくジャンプしてベランダの柵の上に飛び乗った。
 上半分の透明な窓ガラス越しに全貌を見せたその猫は、かつて私が小学生の頃に見た野良猫にそっくりだった。

「え、まん丸?まだ生きてたの?」
「いやいや、あんたさすがに違うべ。ありゃその子供!」

 まん丸はこの県営住宅の周りに住み着いていた野良猫で、近所の子供達の人気者だった。野良猫とは思えないくらい太っていて、特に冬になると毛糸玉みたいに丸くなるので、みんなまん丸と呼んでいた。

「あれは植木鉢とか何度もぼっこすけいね、好かれてないんさね」
「いつ産まれたの?」
「ずうっと前。あんたが大学生でここ出てった頃?」
「え、じゃあ20年くらい前じゃん。」
「本当だいなぁ。ありゃそろそろ猫又になるだがね。」
「猫又?」
「化け猫。20年生きるとなんの。」

 そうしたらまん丸はかなりの高齢出産だったということになるけれど、果たして本当に母の言うことが正しいのか私は疑った。
 でもまん丸の子供は、確かにまん丸の遺伝子を受け継いでいるようで、そのふくよかな体も、若干ふてぶてしい顔つきも、真夏の沖縄の海みたいな透き通ったグリーンの目も、まん丸そっくりだった。
まん丸の子供はそのまま柵伝いに隣の家のベランダに姿を消した。

 早々に焼きそばを食べ終えた母は、居間でテレビを見始めた。ちゃぶ台で頬杖をつきながら、時折ふふっと笑い声を漏らす。随分と小さく丸くなったその背中は、それでもまだ母親としての逞しさを維持しているように見えた。
 私はどうなのだろう。母親としての役目を終えてしまった今、再びこの人の娘として、頼りない小さな背中に逆戻りしているのだろうか。
 もそもそと食べ続けていた焼きそばの味に飽きてきた私は、別の食べ物を探しに冷蔵庫を開けた。
 すると、ガラス瓶に詰められた少し高級そうなプリンが三個並んでいた。

「ねぇ、このプリンさぁ、」
『食べてもいいー?』

 母に訊ねる途中で、私の声といつかのあの子の声が重なった。出張で鎌倉に行った時にお土産で買ったプリンを、部活帰りのあの子が冷蔵庫で見つけたときの声だった。
 まただ。不意に襲ってくるあの子の記憶が、私の日常と平常心を揺さぶる。小刻みに震え出す右手が、なかなかプリンの容器をうまく掴ませてくれない。

「あ、このあいだ大槻さんにもらったやつ!二個っつ持ってきて。私も食べるから。」

 深呼吸をしながら、私は母の分だけを手に取り冷蔵庫の扉を閉めた。


 母が昼寝をする時間になると、私はベランダに出てタバコを吸う。特に何を言われるわけでもないけれど、何となく母の前だと吸いづらくて、昼寝をし始めるまで我慢する。
 ベランダに出ると、サンダルの横に赤い花が二輪落ちていた。まん丸の子供がたまに花を置いていくと母が言っていたのを思い出しながら、それを手に取ってしばらく眺めた。
 まるで折り紙で作ったみたいなその花は、赤い星形の花弁の中に、さらに薄い黄色の丸みを帯びた花が咲いている不思議な形をしていた。花なんて全く詳しくないから、これがどんな種類の花なのかは分からなかったけど、その嘘みたいに装飾過多な見た目が、子供の描く想像上の花みたいで可愛くおかしかった。
 何となく捨てるのももったいない気がして、私はそのまま元の位置へと花を戻した。

 タバコに火をつけて、ふかすように煙を口の辺りで浅く吸った後、すぐに頭上に向けて吐き出す。味覚も嗅覚も、苦々しいタバコ葉の刺激で一気に殺される。煌めく春の陽光とは対極に位置する存在として、まるでこの世の喜びや幸せを享受してはいけないかのように、私は私を虐めてみる。
 いつもならそうした感傷的な気分になれるはずなのに、今日はただ、何かに叱られているような、咎められているような気持ちにしかならなかった。

 しばらくぼけっと外を眺めていると、建物の横の歩道をまん丸の子供がノロノロと歩いているのが見えた。改めて見ると、重そうなお腹も背中の波打つ感じも、まん丸そっくりだった。
 そういえば一度、帰省したときにあの子にまん丸の話をしたことがあったっけ。昔この辺にいつも猫がいてね、丸くてふわふわしていて、毛玉そのものだったなぁと言ったら、「じゃあ毛玉だったんじゃない?猫じゃなくて」と返された。
 あの時あの子はもう中学生になってたかな?思えばあれくらいから、少しずつ嫌味っぽい言い方も増えてきて、反抗期に入り始めていたんだろうなぁ。反抗期って言うほどの反抗はされたことなかったけど。でもこれから先もっと激しくなっていたのかもしれない。それももう、今じゃ分からない。

 はっと我に返って、私はまた拳で太腿を三回殴ってから、乱暴に吸い殻を携帯灰皿の中で揉み消すと、急いで部屋の中へ戻った。
 ずんずんと足音を立てながら、早く早くと心ばかりが焦る。一目散にトイレに入って、私はまたしばらく自分を取り戻す為にその場に篭った。

 花のことはすでに忘れていた。


(12に続く)

食費になります。うれぴい。