【小説】想い溢れる、そのときに(1)
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夢と現実の区別がつかないのは、どういったときだろう。
行動した結果が自分の想像を超えたとき、今までの経験では見たことのないものに遭遇したとき、心の準備が足りない状態で衝撃的なことが起きたとき。
これらは日常の中で頻繁に起こるわけではないけれど、確実に私たちの判断力を鈍らせ、惑わせる。
そしてその瞬間が最もたくさん起こるのが、眠りから覚めたときだ。
先ほどまで見ていた夢の内容と、目を開けた瞬間に横たわっている自分自身の体の状態とが一致せず、脳内でバグが生じる。まだ夢の続きだと認識するときもあれば、先ほど見ていたものが現実で、今目の前の世界のほうが夢の中であると判断するときもある。
或いはどちらも夢か、どちらも現実かのように思ってしまうことも、ときどきならあるかもしれない。
真香の今日の目覚めは、その「ときどき」で、しかも後者だった。
目覚めた瞬間に聞こえてきた小鳥のさえずりも、鼻腔を通り抜ける少し湿り気のある春の空気も、こちらが現実だと訴えてきていた。けれど、先ほどまでいたはずの世界も、確実に現実のものだったように思えた。
それなのにそれがどんな世界で、どんな内容だったのかは何一つ思い出せなくて、やっぱりあれは夢の中の出来事だったのだろうか。
ゆっくりと体を起こすと、真香は窓の方を薄目で見やった。黄色味を帯びた昼前くらいの明るい日差しが、アーチ状の窓ガラス越しに燦燦と降り注いでいた。格子状に六枚に分かれているガラスは、下半分に濃淡の異なるピンクの花のステンドグラスが施されている。そのヒガンバナのような形の花びらが、少し輪郭をぼかしたまま、真香のベッドの上に映し出されていた。
かすかに葉の擦れる音が聞こえてきたので、今日は少し風が吹いているのかもしれない。目を閉じてその音に耳を澄ませると、かすかに新緑の匂いを感じた。ひんやりとした床に足を落とし、ぎしっと鈍い音を立てる床を踏みしめながら、真香は裸足のまま玄関の扉へと向かった。
扉を開けると、外は春の日差しに煌めいていて、肌の奥底まで透けて見えるような陽の光がそこら中に溢れ返っていた。
昨夜降った雨粒なのか朝露なのか、葉の上で輝く水の雫が宝石のように細かく乱反射していて、真香は思わず眩しさに目を閉じた。
家の周りには小さな子供が駆け回れるくらいの広さの庭が広がっていて、雫できらきらと輝く紫色の花がそこかしこに咲き乱れていた。ひと房の中に小さな花がぎゅっとまとまっているその姿は小さな風船のようで、柔らかい風にその身をゆらりと任せていた。
その花の間から、少し艶めいた灰色の毛玉のようなものが、ノソノソとこちらに向かって近付いてきていた。毛玉は足元まで来ると、涼しげなスカイブルーの瞳で真香の顔をじっと見つめた。随分と大柄な猫だなと思いながらしゃがみ込むと、猫はふいっと背を向けて再び元の道を戻っていったので、真香も後を着いていくことにした。
庭の裏門を抜けると、しばらく草原が続いていた。風が吹くたびに草花が順番に頭を揺らしていくと、まるで風の足跡が見えるようだった。乾いた筆で白い絵の具を擦ったような、隙間だらけの雲が所々に浮かんでいて、たまに太陽の前を通り過ぎてはその光をちらちらと遮った。
猫は草原の先の小さな丘を登っていくと、時折後ろを振り向いては、真香が着いて来ていることを確認するかのように立ち止まり、再び草をかき分けながら進んでいった。
少し息が上がりながらも、真香は猫の後を追っていくと、丘を越えた先に一軒の小さな家が見えた。
赤茶色のレンガ作りのその家は、ドアも窓も全て丸く型取られていて、半分くらい蔦で覆われていた。黄緑色の葉が陽光に照らされて艶めいていて、家全体が光を放っているようにも見えた。
猫は玄関横の小さな小窓へ頭を突っ込み進むと、長い尻尾が閉まる扉に挟まりつつも、ぬるりと家の中へと入っていった。
真香もまん丸の木でできた玄関扉を開けると、少し体を屈めながら後に続いた。
家の中は狭くごちゃごちゃとしていた。全ての壁が本棚になっていて、大小さまざまな本がぎっしりと並んでいた。天井からはマクラメ編みのハンギングプランターが沢山吊るされていて、濃淡の違った緑が部屋の空気を彩っていた。
窓の傍に吊るされたガラスの花のモビールがゆっくりと回転すると、優しいミラーボールのように天井や床を煌めかせていた。
「やぁ、起きた?」
突然、背後から声を掛けられて、真香は体をびくつかせた。振り向くと、先程の猫を抱えた青年が立っていた。薄緑のレンズのメガネをかけていて、上下共に黒づくめの服を着ていた。
「思っていたより時間がかかっていたから、そろそろ起こしに行こうかと思っていたんだよ」
青年はまるで、真香と旧知の仲のような言い方で話すと、身体中に身に付けた金色の装飾品をじゃらじゃらと音を立てながら猫を床へと降ろした。
「まだ少し世界がクリアではないかな?目が半分しか開いていないように見える」
ふふっと小さく笑いながら青年は小首をかしげると、真香の頭を優しく撫でた。
「猫が、庭にいたから。あなた…ダボが飼っているの?」
「そうだよ、アジョナという名前なんだって。彼女は君に自己紹介はしなかったの?」
「私は猫の言葉、わからないから…」
ダボはキッチンの方へ行くとお茶の準備をし始めた。窓側にある大きな椅子に座ると、真香は外の景色をぼんやりと眺めた。木々の生い茂るダボの庭の片隅には、ピンクがかったオレンジの花が一輪、小さく風に揺れていた。
今日も変わらない穏やかな天気と、つい目を細めてしまう眩しい陽の光に、真香は自然と笑みが零れた。
「お茶を飲んだら、今日は早めに帰った方がいいかもしれないね。」
「え、ちょっとはおしゃべりしてもいいでしょ?またいつもみたいに。」
テーブルに置かれたガラスのティーカップに注がれるミントティーの香りが、部屋中を満たしていく。
深く息を吸い込んで満足気な表情を浮かべたダボは、真香の正面に座ると窓を開けて空を見上げた。
「このあと、しばらく雨が降るから。」
夜になると、優しい雨の音を聞きながら、真香はベッドの中で今日のことを思い出していた。
ダボとのティータイムはいつも楽しい。今日は色彩と光の関係についてを話してくれた。光の中にある色の要素を分析するだけでは、世界の色を説明するのは難しくて、闇の中にも色の要素は含まれているという話。私でも名前を知っていた文学者が、そんなことを研究していたなんて全く知らなかった。
ダボはいつでも色々なことを教えてくれるし、何でも知っていた。また明日はどんなお話が聞けるのだろう。わくわくしながら目を閉じると、真香は次第にまどろんでいった。
完全に意識が閉じようとする頃、私はどうして彼の名前を知っているのだろうとか、「今日も」?これが日常だったんだっけ?だとか、昨日見ていた現実のような夢の内容はやっぱり思い出せないままだったな、などという、先程から何となく頭の中にへばりついて剝がせないでいた疑問や不安も、ゆっくりと溶かされて無くなっていってしまった。
(2へ続く)
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