風空嚢考(2)
三条中学校校歌の作詞者である平野秀吉は、1873年(明治6年)生まれ。14歳小学校卒業後(もしかすると卒業前から)に「授業生」として教員生活をスタートしています。授業生というのは、当時の教員不足を背景にした無資格臨時教員(代用教員)で、平野は、教員生活を自分の母校で後輩の小学生を教えることから始めています。
14歳(の子供?)が小学校で教えるというのは、今の感覚だとすごく驚くようなことです。当時、こういったことが当たり前だったのかどうかは分かりませんが、その後の平野のキャリアを見ると、平野が相当に努力家かつ優秀だったことは伺い知ることができます。
平野は、小学校教諭の免許、中学校教諭の免許などを独学で順次取得し、旧制新潟中学校の教諭などを経て、1901年に高田師範学校(後の新潟大学教育学部の前身の一つ)の教諭になっています。その後は高田師範学校で教鞭を取る傍ら、漢詩、万葉集や良寛の研究を行っています。
三条中学校の校歌が制定されたのは、1905年ですからその時に平野は高田師範の教諭でした。想像ですが、新潟中学校、三条中学校の関係者のなかに、数年前に新潟中学校で教鞭を執っていた平野が、新設した中学校の校歌作詞者としてふさわしいと考える人がいて、作詞の依頼が行われたのではないかと思います。
三条中学校校歌の歌詞は以下のとおりです。
風空嚢を翻し 説は愚人を驚かす
只行ふに敏なれや 守門沈黙五千尺
内に積れる徳あれば 見よ衆嶽の宗となる
茫々百里蒲原の 広野を呑むや信濃川
来れ憂事逆巻きて 尚身の上に来たれかし(あるいは積れかし)
いざやためさん我が力 琢磨は石を玉と化す
よりて助くる峯もなく 孤峯嶷立弥彦山
山其の山にあらねども 朝日只さし月てりて
越の鎮めと立つ見れば 我に自立の心あり
五十嵐河畔草若き 褥に臥して思ふ時
かくて過ぎぬる今日も亦 我向上の我なるか
源泉こんこんやまざらば 海となるべき末あらむ
世は柔弱の風ぬるく 咲くや浮薄の花あれど
我は花なき松杉の 冬凛々の気を凌ぎ
夏炎々の日に枯れず 国の柱とそびえばや
それぞれ「衆嶽の宗」「琢磨は石を玉と化す」「我に自立の心あり」「海となるべき末あらむ」「国の柱とそびえばや」といったポジティブな言葉で結んでいますが、前段は逆に「説は愚人を驚かす」「憂き事」「助くる峯もなく」「我向上の我なるか」「柔弱の風ぬるく」といった、ネガティブな言葉が並んでいます。
一般に校歌は、前途洋洋たる様子、夢や希望といったことを、声高らかに歌い上げる例が多いように思います。(1)で例に挙げた新潟中学校、浦和中学校の歌詞にも、「胸颯爽の意気」「あつき血」「将来国家に望み」といった、ポジティブワードが並んでいます。
三条中学校の校歌が多少異質、しかし素晴らしいと思えるのは、中学校の生徒に対して「世間は結構厳しいぞ」というようなメッセージを、「期待してるよ」というメッセージとともに贈っているところです。
(3)に続きます。