脳のエラー
私は子どもの頃から推理小説に親しみ、そこでは大抵殺人が主題となっていて、人が人を殺す、という状況への関心が深まっていった。推理小説では犯行のトリックが重要だけれども、私の関心は殺人自体に向いていた。
といっても、私の興味は殺しではなく、「なぜタブーを踏み越えて殺すのか」というところにあった。犯行そのものよりも、どうしてそうなったのかということが気になる。
そこで、コリン・ウィルソンだとか、マーダー・ケースブックだとか、さまざまな殺人犯に関する本を読みあさり、気づいたことがあった。
それは、脳のエラーのようなもの。恨みや争いなど、憎しみからの殺意なら誰でも抱く可能性がある。でも、普通の人が楽しむようなことでは喜びを得られず、殺すことでしか楽しめない人が存在する。
私は「普通の」(人を傷つけない)行動で幸せになれるけれど、そうなれない人はどうすればいいのか? やむをえない、とは言えないけれど、配線ミスというか、殺しだけが快楽と結びついてしまっている人が生きる道はあるのだろうか?
殺人ではないけれど、許されないという意味では通じるところのある小児性愛についての記事があった。
子どもを持つ身としては、行動には移さないと言われても、子どもを性の対象とする人と自分の子どもを接触させるのは無理。でも、自然に湧きおこる感情が社会のルールと折りあわないという理由で孤独に生きるしかないという状況には、涙がこぼれた。
私にはどうすればいいのかわからない。当事者になったら、加害者に寄り添える自信はない。でも、第三者としては、制御を超えた衝動(意志の問題とするのはあまりに気の毒)に翻弄される人のことをなんとか理解したいと思っている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?