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演技と驚き◇Wonder of Acting #12

「人」は演じることでようやく人前にいられるのかもしれない。[Dec/2020]

01.今月の演技をめぐる言葉

ナガ@映画垢 @club_typhoon

(『私をくいとめて』)
若干脳内で脚色はしてますが、キャラクターとキャラクターという関係を超えて、役者と役者という関係が垣間見えることが、映画を見ていると時折ありますね。

それが映画として良いか悪いかは別にしても、こういう瞬間があることが映画を見ている1つの理由かもしれないと思いました…。

オリジナルツイート

マカロニ大聖堂@makaroni_seidou

『西鶴一代女』1952

一人の女性「お春」の人生を、凄まじい緊張感で描く溝口健二の名作。この喩えようのない美しさはいったい何なんでしょう。最初のカットから命を擦り減らすような長廻しに言葉を失います。そして田中絹代の名演。絶望に満ちた世界を凍らせるかの如きあの声…。完璧な地獄絵図です。

オリジナルツイート

引用させていただいたみなさんありがとうございました (礼 †

02.[連載] 雲水さんの今様歌舞伎旅(ときどき寄り道)#2:2020年、オンライン配信で見えてきたこと。ー 箕山 雲水

劇場での公演の多くが中止や延期を余儀なくされた2020年。歌舞伎も3月からあれよあれよという間に公演中止になり、ようやく再開したのは8月だった。その間、いくつもの無観客配信が行われていたのは、普段歌舞伎をご覧にならない方々もよくご存知のことだろう。ちょっとした企画ものをスタジオから放送するのであればともかく、無観客で舞台を見るなどという体験は、少なくとも私にとっては初めてのことだったし、無観客でやって意味があるのか、むしろマイナスなのではないか、舞台は生で観客とのエネルギーのやりとりがあってこそ成り立つのにとさえ思っていた。1953年のNHK開局記念式典では『道行初音旅』が無観客で行われ、思いの外長い歴史があったというのにだ。

ところが、実際の無観客配信での歌舞伎は、そんな浅はかな懸念を吹き飛ばす強烈なエネルギーに溢れていた。映画のそれとは違う舞台の演技の魅力をまざまざと思い知らされた。もっと言うと、生の舞台とは別の魅力のある新しいスタイルとして、今後も無観客配信を続けてほしいとすら思えた。

「The show must go on」なのだ。舞台はなにが起ころうが前に進む。稽古の段階では演出家や指導者がいたとしても、舞台の幕があがればその人たちは手出しができない。板の上の俳優がすべてを背負うしかないのだ。思い通り行かなかったから、と撮り直すわけにもいかない。ことに主役を演じるような人は常に「ハリハリ」状態。ぴんと一本、最初から最後まで糸が張られているような緊張感で貫かれている。これが配信で舞台より近くの感覚で見られるからこそ、より強烈に感じられるようになったのだ。

とりわけ中村吉右衛門配信特別公演『須磨浦』は印象的だった。吉右衛門が演じるのは『一谷嫩軍記』で有名な熊谷直実だ。源平の合戦で出陣した源氏の武将・直実は、平家の若い公達である平敦盛を救うようにとの義経の密命を受け、同じ年頃の自分の息子の首を打ち、身代わりにすることで敦盛を助ける。その一連の場面を、飾りこまれた大道具もなければ衣裳も鬘も化粧もない、身一つの状態で演じきった。カメラは特別なことをしないで淡々と全体を見届ける。何も助けがないに近い状況なのに(ないからこそ)、その場面の状況がありありと目に浮かぶ。苦悩の中から絞り出される「平家方に隠れなき、無官の太夫敦盛を討ち取ったり」の一言など直接胸に響いて涙が止まらなかった。

今まで衣裳や鬘や化粧などで隠れていた素の俳優の心の動きが、劇場では見えないようなところまでアップになることによって、直接、観る側までとんでくる。他の観客の拍手もため息も息遣いもない、特にオンライン配信はパーソナルな環境で見ることが大半だから、まわりを気にすることなくストレートに演技を感じることができる。これまで味わったことのない、強烈な体験。

歌舞伎座での公演が復活して数ヶ月、生の舞台を見ることもだんだん当たり前に戻ってはきたけれど、しかしこの体験は忘れえるものではない。一年に数回でもいい、これからもオンラインで無観客配信を続けてもらえないものだろうか。新しいジャンルのひとつとして無観客配信が定着したら…また楽しみが増えてしまうなぁ。

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03.今月の「Wonder of Act」(編集人の一押し) * 3

いやほんと。今月は良い記事、そして考えさせられるニュースが多かったのです。

壱)CINRA.NET 対談

柄本:舞台に出てきて、叫んだり、人が見てる前で涙流したりなんかするんだよ? 熱演したりするんだよ? ちょっと人間としてどうなのかなって(笑)。

俳優はみな、演技というものについて考えて考えて考えて、考えていると思うのだけど、柄本明はその考えていること自体をも考えている。

弐)RealSound (映画部)

一人の俳優を語りつくそうとして、言葉はついに俳優の立つ場所にまで、たどり着く。そうせしめる俳優の凄み。そこまで追いかける評者の脚力。

参)ロームシアター京都公式

事実について軽々に語ることは控えたい。ただ、集団が新たな価値を目指すものである限り、その価値が、やがて集団そのものの維持・保身を目的とし、その中心を絶対化する転倒は、これまでもあったし、これからもあるだろう。そのことを、そのことは、覚えておきたい。noteというメディアについてもだ(これは後記で触れます)。

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04.(隔月連載) 演技を散歩 ~ pulpo ficcion

第五回「のん。神話的俳優」

自分の書いた文章を人目につくところに置くのに、自信もへったくれも、出したら出しただけの覚悟と、それがどのように届こうとすべてが自分の責任ではないという放擲を、年相応には持っていたはずなのだが。

だが、今回はブルっている。ドキドキしている。なぜなら、私は『あまちゃん』を一度も見たことがないのに、この文章を書こうとしているからだ。ものすごく無謀。そんな言葉がこの一週間ほど、ずっと脳内でぺかぺか瞬いている。

そんな私の頼りにするのは次の四つ。

1.JR西日本「ホーム転落防止キャンペーン」の、のん
2.『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』の、のん
3.『8日で死んだ怪獣の12日の物語』の、のん
4.『私をくいとめて』の、のん

では、さっそく歩き出そう。

大阪駅で、最初にこのサイネージを見たのはいつだったか。上記リンクから視聴できるCMの最後の礼。それだけが駅コンコースの複数の液晶板に一斉に登場し、えらく丁寧にお辞儀した。仰々しいなあ。と思った。それがのんだと知ったのはその後だ。そう知ってからも、その仰々しいお辞儀の印象は変わらなかった。

『この世界の片隅に』は5回観た。もともと原作を知っており、なお、別の作品として好きになった。のんの抑えた表現におどろいた。『あまちゃん』を見たこともないのに、彼女に対してオーバーアクトなイメージを持っていたからだ(で、それはあながち間違いでもなかったが、それは後程)。

爆音映画としても大好きな『この世界の片隅に』の長尺バージョン。付け加えられる人々の物語と、もしかすると前回を上回る爆音が体験できるかもしれないという期待をもった私が、観終わって感じたのは「のん、憑依系の俳優だ」ということだった。直感的にそう思った。そして、今思えば、付け加えられたエピソードの大半が、遊郭の女という<個>の物語だったからだと理解できる。リンやテル(名前書いているだけで涙が出てくる)が、たった一回こっきりの生を鮮やかに生きている分、すずの尋常ではない根強さ、フィクショナルなキャラクターが際立った。にも拘わらず、すずのリアリティ、生活音痴さを含めた<生活感>は、一切損なわれていなかった。

そのコントラストの鮮やかさを、私は「憑依」という言葉で記憶したのだ。

のんが出ていることを知らず、というか岩井俊二が監督ということすら知らずに観た(どんな情弱の映画ファンかと自分でも思う)この映画で、のんは、まるで善き地球人の代表かのようにふるまっている。斎藤工も武井壮もひたすら自分にかまけているのに(演技がということではない、劇内での立ち居振る舞いがということだ)、のんだけ、そう、例えばグレタ・トゥーンベリのように、人類としてのふるまいを考えていた。その気負いが家族に折られるところもなんだか可笑しくて、岩井俊二の力の抜けた才気に、ああ、いい映画観たと、心少し浮き上がって劇場を後にしたのだった。

そして『私をくいとめて』だ。私は大九監督のファンで、そして、この映画の撮っ散らかったような構造や、Aという存在や、林遣都のときどきおっさん臭のする若さや、もちろん、橋本愛とのダイアログ(『あまちゃん』は観ていないけど)や、語りたいことは山盛りあるのだが、ここは直ちに急所に向かおう。(とても「散歩」とは言えない。申し訳ない。けど、こっちだって緊張して最短距離を行くしかないのだ。申し訳ない。)

それは、映画のちょうど真ん中あたりに現れる。主人公のみつ子(のん)が、温泉ホテルのイベントで女芸人にエロがらみする客に、物申すことができず、中庭で落ち込みながら語るシーンだ。

みつ子はここで、これまでに女として受けてきた苦痛を吐き出すように、語る。聞き手も彼女自身だ。うまいこと体に触ってくる上司への嫌悪、それをかわした自分への憤り、もちろん、そこにはさっきエロがらみする客に何も言えなかった悔しさがある。そして、女性先輩の冷静な一言、その処世に対する怒り、その処世に嫌悪感をいだく自分へのいら立ち。

そんなすべてを叩きつけるように、丁寧になぞるように語るみつ子。

この時、僕は、自分が男として、完全に糾弾されているような、その場でごめんなさいごめんなさいと言いたくなるような、もうどうしていいかわからないいたたまれなさを覚えた。息がつまった。劇場でなかったら叫んでいたかもしれない。みつ子が僕を責めているのではないことはわかっている。いや、違うか、さっきエロがらみした観客を俺スルーしたよな。俺も同罪か。

おかしいでしょ。というか前パラグラフでは一人称も変わってしまっていたけど、その時、私は心内で、確かにそのように感じていた。映画を観ていることなど、その瞬間飛んでいた。まともな感性の男なら、多分ときどき感じることがある「男としての原罪性」に直に向き合わされてしまったのだ。(あわてて冷静な私として補足しておくと、この「男としての原罪性」を感じることを免罪符にしようとしている節がないか男は?という気はするのだが、それはまた別の話)

何なのだろう。こんな思いは『宮本から君へ』の蒼井優にも『閉鎖病棟 ーそれぞれの朝ー』の小松菜奈にも感じなかった(二人とも劇中でひどいことをされます)。あのひどさに比べればいかほどのことかということを、みつ子は、ある意味くどくどと語っているのに。

なぜ、こんなに直面させられたのか。

以下、もう、一直線に駆け抜けます。

それは、のんが、ただみつ子というキャラクターにではなく、30代の、男社会に生きづらさ、違和感を持っている女性というもの全体に憑依していたからだと思うのだ。一個の人間ではなく、世代というか群れというか、とにかく次元の違うレイヤを演じていたからだと思うのだ(かなり確信していますが『あま(以下略)な私としては「思う」でとどめる)。だから私はそれをスクリーンの上の一個人の物語として観やる(流す)ことができなかったのだ。

しかし、人が、一個の人間ではなく、人間集団に憑依して、それを演じることなどできるのか、という向きもいらっしゃるかもしれない。

しかし、そういうシステムは古来からあり、それは一般に「神話」と呼ばれている。血肉の通ったリアルな人間ではなく、元型、アーキタイプを描く物語だ。

そして、ここから逆にたどると、1.から3.ののんがすべて腑に落ちるのだ。JR西日本の乗客インターフェースに憑依したのん。空襲地域の生活人に憑依したのん。怪獣や星人を前に人類に憑依したのん。うまくいくときもいかないときもあるだろう。しかも、彼女は大きな物語を演じるわけではない。現代(近代)日本人のどちらかというと細やかな感情に沿った、物語を演じているのだ。リアリズムの劇構造を神話的な憑依演技で貫徹することなど出来るのか?

そんなことが、果たして可能なのか。

という問いは、しかし、意味をなさない。果たしてそれを可能にしてしまった俳優が厳に存在するからだ。(みせかけの)多様性がかしましい世の中で、実は皆、同じ構造にすくい取られ、類型に回収されそうなのだ。そんな世界の中で、この多様と類のキワを体現してしまった俳優がいるからだ。

その驚きに、今はただ驚こう。

彼女の名はのん、という。本名は能年玲奈。だが俳優である限り、その名を封印された俳優である。

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05.こういう基準で言葉を選んでいます。その他

舞台、アニメーション、映画、ドラマ、etc。人が<演技>を感じるもの全てを対象としています。編集が観ている/観ていない、共感できる/共感できないにかかわらず、熱い・鋭い・意義深い・好きすぎる、そんなチャームのある言葉を探しています。皆さんからのご紹介、投稿もお待ちしています。→投稿フォーム

なお引用エントリー中にスチルが載っていた場合、記事を直接埋め込まず、文章を引用し、リンクを張るようにしています。画像引用は著作権上微妙で、一枚の画像が即作品のため「都度、引用元、作者を明記する」が厳格な運用となります。しかしSNSについては現状そこまでの厳格さを求められてはいないし、求めるべきとも考えてはいません。一方、このマガジンのように一カ所にまとめるのは、個々のSNSとは表現するレベルが異なるだろうという判断です。

今号から、連載記事の主題についてはハッシュタグをつけることにしました。というかなぜ今まで思いつかなかったかということですね。(2021/1/1 追記)

第13号は1月28日発行予定ですが、後記に書く通り、変更するかもしれません。

連絡先:
Twitter/@m_homma
Mail/pulpoficcion.jp@gmail.com

06.執筆者紹介

箕山 雲水 @tabi_no_soryo
兵庫県出身。物心ついた頃には芝居と音楽がそばにあり、『お話でてこい』や『まんが日本昔ばなし』に親しんで育った結果、きっかけというきっかけもなくミュージカルや歌舞伎、落語を中心に芝居好きに育つ。これまで各年代で特に衝撃を受けたのは『黄金のかもしか』、十七世中村勘三郎十三回忌追善公演の『二人猩々』、『21C:マドモアゼルモーツァルト』

pulpo ficción @m_homma
1965年生男性会社員。pulpoはスペイン語で蛸の意。観客部感想班。と言ってもこれは特定の団体ではなく、作品に触れ、何かを感じた人の合言葉になるといいなー、と考えているとのこと。数か月前、突如シアターカンパニー「左岸族」を友人と二人で結成。2021年には旗揚げ予定

07.後記

書くことが二つあります。

一つは編集人の募集です。いや、マガジンの作成は私がやります。言葉を集めるのが一人というのはそろそろ展開がないな、と痛感しているのです。ツイッターからだけ引用すると決めているわけではないです。演技について書かれたものを(ご自身のみていらっしゃる範囲でかまいません)、継続して、記録し、蓄積することをご一緒できる人を求めています。連絡ください。マジで。

二つ目は媒体のことです。詳しくは書きませんが、noteの運営団体に対する不信感を持たざるを得ないインシデントがありました(個人的なことではありません、少しニュースにもなりました)。それだけで即、媒体変更ということでもないのですが、もう少し運営団体の方針を見つめたい。それから、実務的な問題として、noteはこうしたマガジンの編集(物理的な入力作業のことです)に適していないように思います。というかぶっちゃけ編集しづらい。

ということで、こちらも検討中ですが、何かサジェスチョンくださると助かります。

あ、どさくさで消滅ということは避けたいです。せっかく一年続いたんだ。本当にリアルイベントできるとこまで引っ張ってみたくなっています。

では、皆様、一年間ありがとうございます。良いお年を。そして、来年も幾多の演技に驚き続けましょう!

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