
交色板
がらんがらん、と汽車が停車場に着いた事を報せる鐘が、どんよりと重く曇った灰色の空に吸い込まれて行きました。
其の空は今にも雨が振り出しそうな顔をして居ました。
終着駅です、と車掌が皆を急き立てて云うので鞄を引っ提げて降りると、両の手で算えられる位の乗客がせかせかと去った後のプラットホオムを、びうと一陣の木枯らしが通り去って、何だか馬鹿に寂しい様に思われました。
駅舎を出ると、其処にはもうすっかり見慣れた欧風建築や、最近流行り出したビルヂングが微塵も見受けられず、東京より広い空の下には、文明開化に置いて行かれた古臭い軒が、連綿と列を為して往来を作って居ました。
一等広い大通りでは、其処彼処で井戸端会議や少年少女の大名行列が成されており、少し前では何処でも見られたそんな風景に、私は少し故郷が恋しくなりました。
それから私は、見慣れた東京との違いに驚き、懐かしみ、又幾らか見縊り、とうとうこんな処に行き着いて了った、と嘲る様に思いました。
別段、行く宛が有って此処へ来た訳ではありませんから、駅舎の三角屋根の下で呆然と立ち尽くして居ましたが、先の降りた乗客と其れを迎える家族達の、行く宛の無い私に向けられた奇矯な物を見る目が如何にも居た堪れなくなって、其の場を逃げる様に、革靴に泥が付くのも厭わず、往来を急ぎました。
幾陣かの風が地面の黄土を巻き上げて、卸したてのコオトに茶色い染みを作りました。
けれどもそうして急いでもやはり、精神はただ呆ッとして独り波に揉まれて漂う水母の様に無気力な儘で、私は往来を歩いて居りました。心を空にして一心に歩いて見ようとしても、今朝の一片の手紙ばかりが頭の端から端迄を占有し、私を兎角苛むのです。
そうして私は足を休まず動かしました。
然し、幾ら歩いても、辺りの景色は一様として変らず、やはり寂れて居るのか活気が有るのか何方とも取れない風景が、人を変え、看板を変え、表札を変え乍ら延々と続くばかりで、如何も歩いて居る内に退屈になって居ました。
かと云って、悠然と歩けば町の人々の排他的な視線を一身に引き受けて了う為に、何処かに用事の有る様な忙しい振りをして店の様相等には眼もくれずに、此の何処迄も続く往来を歩調を緩めず歩いて居りました。
偶に、此の小路に逸れて人目から逃げて了おうか、という考えがちらちらと胸中に飛来しました。けれど、其れでは如何も、私が丸で存在しない見栄を相手取った一人相撲を取って居る様でたまらなく無様に思えましたから、凝ッと堪えてただ只管に歩いて居ました。
黄土色の飄は私の後を追う様に、さらさらと吹き渡って行きました。
◯
漸く街の外れに着いた頃には、太陽は未だ天頂迄をのろのろと昇って居る筈の刻でしたが、もう直ぐに泣き出しそうな灰色に塗れた空には、一欠片の太陽も見られませんでした。
片田舎の町の外れにもなると、人っ子一人も居なくなって、辺りには家屋の代わりに鬱蒼と茂る木々が顔を見せる様になりました。
来た道を振り返って見ると、向うから来る時には果てし無く長く見えた往来も、此方からすれば、ほんの少し遠くに見える駅から続く只の道の様で、途端に今迄汗を濁々と流し乍ら長い長いと文句を垂れて来た私が、只の阿呆か白痴の様に思えて、ほんの少し空しく、そして幾らか背負った重荷を下ろした様な気になりました。
そうして、もうすっかり歩く気力も消えて了って、私は町の一番外れの宿に入りました。
宿の玄関は、歴史を感ぜられると云えば結構ですが、古臭いと喩えた方がもっと似合う様な代物で、積み重ねた歴史が何の貫禄も帯びてないのだと私は勝手に、酷く失礼な得心をしました。
けれど、そんな薄っぺらい古臭さは、私のノスタルヂイを大いに奮い立たせ、私に、もう輪郭も霧散し出した郷里をほんの少し恋しくさせました。
開け放しにしてある扉からはぴうぴうと小風が吹いて季節外れの風鈴を鳴らして居ました。
呼び鈴代わりの鐘を鳴らすと、奥の間の方から、仲居がひたひたと大して急く訳でも無く悠々として歩いて来て、そうして私は出迎えられました。
其の仲居は私を二階の『紫陽花の間』と云う部屋に通しました。
十六畳位の広さの部屋には、窓が二枚と箪笥が一棹在る他には、窓の側に紫陽花を一輪挿した無粋な花瓶が置かれて居るばかりで、ばかに伽藍とした印象を受けました。
けれど、大きく開け放たれた窓は、ずっと向うの方迄続く林と雄大な連峰とを一挙に切り取って、一枚の絵にして了う様で、其れが此の無骨な部屋に些かの華やかさを与えて居ました。
私は其の仲居に礼を言って、そうして初めて其処で中居の顔をまじまじと見つめました。有り体に言えば、彼女はひときわ美人でした。