赤いリボン-10年後のバレンタイン-
受けたい授業を自分で選べて、クラスや学年を超えて誰とでも繋がれる大学生活というものに憧れていたけれど、だからこそ、それまでのように顔を合わせるチャンスが毎日あるわけではないことを思い知った。
それにしても大学というのは広い。どこかのショッピングモールかと思うような巨大な校舎の裏側には、それに劣らない立派な部室棟がある。
その部室棟の1階の隅に、くたびれたベンチがぽつんとある。手前は掃除用具や過去の学園祭で使われた看板が入った大きな物置部屋で、普段は鍵がかかっていて誰も出入りしない。せいぜい、迷子になった新入生くらいしかここには来ない……まあ去年の4月の僕のことだが。
同級生の友達がみんな進学していく中でひとりだけ浪人の道を選んだ僕は、せめてもの寂しさの紛らわせにギターを買ってひっそりと練習していた。といっても独学で適当にやっていたので、ろくに弾けはしなくて、ギター初心者の定番のスピッツ『チェリー』を触りだけ弾ける程度。
そして、晴れて試験に合格し大学生の称号を得た僕だが、残念ながら軽音楽部は廃部になっていた。しょげて呆然と歩いていたら、ベンチでひとりでギターを弾く、栗色の長い髪の女性の姿を見つけた。
彼女が弾いていたのは、とても懐かしい曲だった。
僕が小学生の頃に流行ったBIRTHというガールズポップバンドの曲。このバンドはなんと平均年齢が13歳、メンバー全員が小中学生ということで、当時とても話題になった。
自分より少しだけお姉さんで、テレビの音楽番組で活躍する彼女らの姿を見て、僕はたちまちファンになった。特に、まだ小学6年生で自分と年齢が近いKANAという子が好きで、憧れだった。KANAはいつも赤いリボンを付けていて、それが彼女のシンボルマークだった。
だけど、BIRTHはその後すぐに解散してしまった。メンバーが学業を優先したいというのが主な理由だと報道された。まだ小学生だった僕は解散ライブには行けなかったけど、その後にお小遣いやお年玉で彼女らのCDをぜんぶ買い揃えた。今でも、スマホに曲を入れて聴いている。
1曲を弾き終えた彼女に、思いきって声をかけてみた。
「それ、BIRTHの曲ですよね?」
それも、まだ売れなかった時期のアルバムの、ディープなファンしか知らないような。
彼女は目を丸くして、「うん……」と頷いて、そっとギターを置いて、やがて眉をしかめて言った。
「君、なんでここにいるの?」
「いや、あの、迷子になって……」
「部室棟、広いもんね。君、新入生?」
ピックを僕のほうに向けて、彼女が微かに笑った。紅色の口元が大人の女性っぽくて、ただでさえ男子校出身で女子への免疫力が低い僕はドキドキした。
「は、はい」
「ギター持ってるってことは、キミも弾けるの?」
「ちょっとだけですけど」
「弾いてみてよ」
まだ名前も知らない彼女の前で、渾身の『チェリー』を披露したところ、「F弾けてないしメチャクチャじゃん」と酷評をいただいた。彼女は腹を抱えてひとしきり笑った後、「でもその歌、あたしも好き」と言って、真剣な目をした。
「いい?あたしの指をじーっと見てて」
その台詞から流れるように、彼女は完璧なFコードを披露した。
「あたしはだいたいこの時間ここにいるよ。4年だからもう授業もあんまりないし。友達はみんな就活ばっかでつまんないんだ。来れる時はおいで」
それから、毎朝この時間になるとここに来て、彼女からギターをご教授いただくのが習慣になっていた。
彼女の名前はカナと言った。BIRTHのメンバーのKANAと同じ名前だと指摘すると、彼女はちょっと顔を赤らめて「よくある名前だし、偶然だよ」とぶっきらぼうに言った。それ以外にも、KANAのことを話題に出すと妙に恥ずかしがることがあって、もしかして僕と同じでKANAが憧れの人なのかな、と思った。
僕は結局は特にサークルには入らずとも、受けたい授業を受けて、同じ学科の友達が作れて、クラスのコンパにも誘われて、学園祭を楽しんで、単位も無難に取って、そこそこに充実した大学生活1年目を過ごした。だけどなんとなく物足りなかった。これを4回くりかえすだけというのもつまらないような気がした。
カナさんは卒業単位はほとんど取れていると言っていたが、4年生なのに、春が過ぎて夏になっても企業の新卒募集が終わる秋になっても就活をしている素振りを見せず、かといって遊び呆けているようにも見えなかった。
ただ、バイトはしているという。カナさんはバイトのことを仕事と言っていて、意識が高い真面目な人なのかな、と思った。どんなバイトなのかについては、なぜか秘密だと言われた。もしかして夜のいかがわしい仕事だったりするのだろうか、などと考えて煩悩に苛まれたりもした。
大学生というのは休みが長い。夏休みは8月の頭から9月の終わり頃までほぼ2ヶ月、冬休みは短いがそれでも2週間くらいはあり、さらに春休みはまたもや丸々2ヶ月。
その間は、カナさんに会えない。バイトにまだ不慣れだった夏休みはそちらで手一杯であまり寂しさは感じなかったが、すっかり慣れてしまった今となっては、ずっと会えないことが辛い。しかもカナさんは4年生。もう卒業してしまう。
来月のバイトのシフトをかなり多めにいれた。実家から通っているのでたいして金を使うこともなく、別に貯金しているわけでもないのだけど。春休みが終わったらカナさんはいなくなるという現実から逃げるため、というのもひとつの理由。
今日もいつもの場所に来たが、カナさんの姿がなかった。4年生で単位をほぼ取っているとはいえ最低限の必修科目はあるはずなので、テストを受けている最中なのかもしれない。あるいは卒論の追い込み時期なので、そちらに集中しているのだろうか。
しばらく待っていたがカナさんは来なかった。何度かLINEのIDを訊いたことがあったが、いつも丁重に断られたので、この場所でしか会うことができない。
仕方がないので、ひとりでギターを弾いた。カナさんのおかげでだいぶ上達して、BIRTHの代表曲はたいてい弾き語りできるようになった。
次の日も、その次の日も、カナさんは来なかった。もしかしてもう卒論なんてとっくに完成していて、もう卒業式まで大学に来ないのだろうか。
卒業式に行ったとして、これだけ広くて生徒数の多い大学構内でカナさんを見つけ出すのは難しいだろう。連絡先を交換できていればそれが叶ったのに。せめて最後に礼のひとつくらい伝えたかった。
一緒にギターを弾く相手がいなくなった。2年生になったら、思いきって自主サークルを作ってみようか。今どきBIRTHをコピーしたがる生徒がいるのかどうかわからないけど。今はネットで募集する、なんて手もあるか。などと考えてTwitterを開いてニュースの項目の文字を目にした僕はびっくりした。
懐かしの思い出だったBIRTHが復活する。当時の僕は子供だったから無理だったけど、今は大学生でバイトで貯めた金もあるからライブに行ける。全国ツアーだから、きっとここから近い会場にも来てくれるだろう。
飛び上がるくらいに嬉しかった。もしここにカナさんがいたら、どんな顔をするだろう。KANAの話をすると赤くなるように、意外と照れ屋みたいだから、ちょっとひねくれた反応をするのだろうか。
そんなことを考えて興奮した後、ひとりで『チェリー』を弾いた。BIRTH以外で弾ける曲は、今でもこれだけ。
-いつかまた この場所で 君とめぐり会いたい-
今日で定期券の期限が切れる。テストはすべて終わったので大学に来る用事は特にないのだが、またこの場所に来てしまった。
やっぱり、しばらくひとりでギターを弾いた。とりあえず、いま弾けるだけの曲を手当たり次第に弾いた。ただでさえ人の少ない構内の、さらに奥地のこんな場所で、誰も聴いていないけど歌った。
レパートリーをほとんど歌い尽くし、さすがに喉がカラカラになってしまった。部室棟の近くにはコンビニがあるので飲み物を買ってこよう。そう思って腰を上げた。
コンビニは大きな通りを挟んだ向かいにあるので、信号待ちをする必要がある。白いワゴン車が目の前を走った。スライドドアの辺りに「BIRTH」のロゴが大きく書かれているのが見て取れた。BIRTHの痛車なんてあるんだ。運転手はファンの人かな。そうだとしたら、再結成を喜んでいるだろうな。
缶コーヒーを買い、歩きながら一気に飲み干した。良い天気だけど、別に大学にいても仕方ないから帰ろうか。夕方からはバイトもあることだし、少し昼寝するのも悪くない。でも。
もう一度だけ。馬鹿馬鹿しいと自分でも思ったけれど、あの場所に戻った。
相変わらず物静かで殺風景な物置部屋の奥から、何やら音が聞こえてきた。もしかして……。
足を速めると、その先には、いつもと同じようにベンチに座ってギターを弾いて歌うカナさんの姿があった。
「か、カナさん!」
僕はひとりでに叫んでしまっていた。カナさんはうつむいていた。いつもならここでざっくばらんに「さ、やるよ」と言ってギターの練習が始まるのだが、今日はなんだか雰囲気が違う。
「…………あ、あのー……」
両手の人差し指をもじもじさせながら、カナさんは言葉を濁らせる。普段はサバサバしているカナさんがこんな煮え切らない表情をしているのは初めて見た。
「今まで嘘ついてたし、信じてもらえないかもしれないけど……」
一体どうしたというのか。
「はい?」と返すと、カナさんは早口でまくしたてた。
「もう卒業するし情報解禁されたから言うと……、実はあたしは、BIRTHのKANAでした!」
なんと……。
「はい?」と間の抜けた声を出し、頭の中を整理した。つまりは、僕はずっと憧れの人にギターを習っていたということ?混乱する僕を無視してカナさんは続けた。
「そしてもうひとつ!」
「は、はいっ!」
「これ……」
そう言ってカナさんは、赤いリボンで結ばれた四角い包みを差し出した。
「いちおう言っとくけど、義理だからね」
「…………義理?」
その単語を聞いてようやく、「あ、ああ、義理ってあれの……」と合点が行った。
「義理チョコ、くれるんですね……」
「この時期にこういうラッピングのもの、っていったら、見たらすぐわかるでしょうが」
「いや、あまりに無縁すぎて忘れてて……」
「無縁?」
「だって僕、女の子の友達とかいないし……」
そう言うと、カナさんはピックの先で僕の頬を刺した。
「痛い!痛いですって!なんでそんなことするんですかっ」
「さあね」
「そのピック、あげるよ」
「いや、でも、チョコレートといいピックといい、もらってばっかで……。もう大学に来ないなら、お返しもできないし」
「ライブにいっぱい来てくれて、物販いっぱい買ってくれて、コピーしてくれれば、それがお返し。それじゃ、みんなが待ってるから。実は今リハーサル中で忙しくてさ、少し近くまで来たから、無理言って立ち寄ってもらったんだ。卒業式出るのもきついかも。ま、あたしにはこっちの世界のほうが楽しいんだ」
じゃあ本当に、今日ここに来なければ二度と会えなかったのか……。チョコレートの封を開けて、一口かじった。
「美味しいです」
もう少し気の聞いた感想を言えないものか、と自分の語彙力を嘆いたが、まあ義理だから、と無理やりに納得しようとした。だってあのBIRTHのKANAが僕に本命チョコなんてくれるわけないじゃん。でも、義理でも最高じゃん。あのBIRTHのKANAからもらったんだから。
「じゃ、ここで。機材車、あそこに停めてんだ」
カナさんが指さした貸駐車場には、さっきの信号待ちの時に見たワゴン車が停まっていた。あれはファンの痛車じゃなくて、本物のBIRTHの機材車だったんだ。
「キミ、ギターだいぶ上手くなったからさ。バンドとかやりなよ。まだ大学生活長いんだから、いろんなことできるよ。それから……」
そこまでカナさんが言ったところで、スーツ姿の見知らぬ男が後ろから、「もうそろそろ時間が……」と告げた。マネージャーだろうか。強引に連れられるカナさんはずっと手を振って、高速で口をパクパクさせていた。どんどん遠ざかっていくカナさんが何を言っているのかはよくわからなかった。
(そのチョコレートの赤いリボン、10年前BIRTHであたしが使ってた私物。超絶お宝だから大事にすること。あと……)
(…………もらってばっか、ってこともないんだよ。けっこう楽しかったよ……)
6月から、BIRTHの全国ツアーが始まった。サブスク配信も始まり、新曲のいくつかと共にカバー曲の『チェリー』が聴けるようになった。
ネットニュースで読んだインタビューでは、再結成の理由は、解散理由の通りに進学したけれど、学校が自分に合わずにつまらなかったから、だという。それは他のメンバーの発言だったが、カナさんには大学が合わなかったのだろうか。
「あ、いま手持ちないや。チケット代たてかえといて」
ベースのタケルがペラペラの長財布を振り回している。
「えー?必ず返してよ」
ドラムのコージが訝しげな目でタケルを見ている。
春休み、学内の生徒たちでBIRTHのコピーバンドをやってみないかとTwitterで呼び掛けてみたところ、この2人、タケルとコージがやってきてくれたのだ。
といっても、部室棟の隅のこの場所にドラムセットは置けないし、ベースのアンプを繋ぐコンセントもない。なので単なる雑談場所になっているけれど、それはそれで悪くない。
ちょっと前までKANAがここにいたんだぜ、ということは、今のところ内緒にしている。そして、チョコレートの包みの赤いリボンは、ギターケースの取っ手にくくってある。
サウナはたのしい。