短編小説 はじまる
もっと楽しみにしておけばよかったな、とユキは思った。昨日のデートの話である。
マッチングアプリでやり取りをして、LINEを交換し、昨日初めて会ったのである。画像の交換は済んでいたがニチカを見つけるのにしばらくかかった。ニチカは会ってみれば写真の通りの男だったが思ったより派手さは無かった。
「こっち」
とニチカの言う店に向かう時、さり気なく手を繋がれた。
「はぐれないで」
笑みを向けられれば頷くしかなく、ユキはもやもやとしたものとドキドキを同時に店まで連れていった。
ニチカは手品師のような男だった。注文の際もスマートにユキに食べられないものを尋ね、ユキがフォークを持てば自身の子供の頃のテーブルマナーについて語り、小さな笑いを誘う。いつの間にか彼氏は随分居ないとユキが話した時には嬉しそうにはにかんで、乾杯を求めた。小さな滑稽がユキには心地よかった。
店を出る際、二千円を渡すと、二百円をお釣りで寄こした。
ジュースが買えればよかったが、二百円では一本がせいぜいで二人はコーヒーを買い交互に飲むことになった。こういう時、ニチカは臆しない。喉仏を鳴らしながらコーヒーを飲むと、ユキにも寄こした。ユキはどうしてよいのか悩み、ペットボトルを両手で持った。
公園の治安は良くはなかった。ふたりでお喋りをするには騒がしかったし、しかし離れ難いとニチカは言った。この時離れ難い意味を問うてみるのが上級の女なのかもしれないが、ユキは駅に行こうかとニチカを促した。
足取りは重い。ニチカは次第に無口になる。ユキは場を盛り上げようと、よくマッチングアプリで出会ったりするの?と聞いた。全然とニチカは肩を竦め、会うと終わるとため息をついた。
ユキにはニチカから去っていった女達の気持ちが分かるような気がした。
「君を送りたくない」
駅に着くとニチカは大きなため息をついた。ユキには時間があったが何しろ初対面である。一度目のデートはこんなものでいいのでは無いかという気がしていた。ニチカはユキをカラオケに誘う。ユキは密室に誘われた事にドキドキして、また今度にしようと言った。不意にニチカは背をかがめ、ユキの右耳に唇で軽く触れた。
「なっ」
右耳をユキは隠す。触れられた後である。ニチカの眼差しが真剣であったので何も言えずに俯いた。
ユキが最寄りに着くころ、スタンプをふんだんに使ったLINEが入る。ユキは今日は楽しかったというような返信をして、駅に降り立つ。