短編小説 朝焼け
卓志はベランダに出ると、煙草を咥えて火をつけた。朝の日差しが眩しい。大きく息を吐いた。
これが夜だと隣の部屋に住んでいる桃花ちゃんがひょっこり顔を出したりして他愛ないお喋りを交わしたりするのだが、平日の五時半である。桃花ちゃんがいればふかすだけになる煙草を、呑むというに相応しい吸い方で堪能する。
卓志は考えていた。夜勤のある工場で働き、随分時が経ってしまった事を。大学でも出ていれば、資格でも取っていればと思いながら辞めていった同期を思う。卓志の家で大学は禁句なほど空気は悪かったし(両親は卓志が就職してすぐ離婚した)資格を取るほど将来について、希望をもって考えたことなどなかった。
仕事を終えればビールを飲み寝て、起きた頃には出社の時間が迫っている。一日をこなすので精一杯だった。
大きな決断をするとすれば、終の住処を買うくらいかと思っていたが、昨日同僚のカネコさんが子供を授かったので会社を辞めると、困ったような、はにかんだような様子で告白したのを思い出した。カネコさんは部のお母さん的な存在で卓志は急に寂しくなった。カネコさんの愛情を受けて育つ子供に嫉妬したくなるほどだ。産休の制度が整っていないので、辞めることを選んだそうだがカネコさんの人生は充実しているに違いなかった。
女はいい、と言えば軽蔑されるだろうが卓志は子育てに携わりたかった。自分の相手を見つけられればいいのだろうが、当てはなかった。桃花ちゃんは若すぎるし、卓志にみ合う相手はそろそろ子供を諦める選択も考えねばならなかった。
二本目の煙草に火をつける。カネコさん、お幸せにと思いながらお祝いは個別にあげなくともよいという結論に達する。桃花ちゃんが出てこないか、隣のベランダを覗き込む。カーテンが閉まっているのでまだ起きていないのかもしれない。
幸せな家庭を築いてみたかった。臆病なせいで、少ないチャンスは逃した。家庭を築くなら、幸せでなくてはならないと随分気を張ったのだった。温かい母親、厳格さが板につかない父親の自分にひょうきんな子供たち。現実を語るものに理想を語ってもいいじゃないかと卓志は思う。
こんな時も一人で悶々としているようではだめか、と卓志はため息をつく。ふと隣の部屋のカーテンが開いた。桃花ちゃんと目が合う。
へらりと笑う桃花ちゃんに、軽く手を上げて応える。いつの間にか朝焼けは昼間のような太陽に替わり卓志は二本目の煙草を深く吸い込んで消した。
「おはようございます、ササキさん」
桃香ちゃんはにこにこと、卓志の横にパジャマでやってくる。