短編小説 夏の終わり
柴犬は上を見た。渼子は溶けるような表情をしている。喉を撫でられる。今度は柴犬が溶けるような顔になる。
暑かった。縁側で風鈴の音がする。もうじき雨が降る。土が濡れたような匂いがする。
「花火大会、中止かな?」
渼子は家の中に向かって声をかける。どうかなぁ、とおかあさんの声がする。
渼子は浴衣姿のまま柴犬を撫で続ける。柴犬は浴衣の裾にじゃれたくて仕方ない。渼子の周りをうろうろする柴犬の喉を渼子は何度も指で掴む。柴犬は目を細め、腹を出しそうになる。渼子は掴む。喉の毛皮は全て渼子のものである。柴犬は全てを渼子に預ける。
「なみちゃん、チビにご飯あげて」
「はぁい」
あと少しだったのに渼子は柴犬の腹を撫でることなく家の中へと消えていった。柴犬は切なくてひとつ鳴いた。尻尾をぱたぱたと振りながらおかあさんと渼子の声を聞く。くぅん、と柴犬の鼻が鳴る。渼子が戻ってくる。
「待て」
渼子は右手を柴犬の前に制止するように掲げる。左手の器には味噌汁にご飯を入れたものにドッグフードが混じっている。柴犬の目が輝く。だらしないポーズをしていたが直ぐにおすわりをして、よし、を待つ。
「はい、よし」
割とあっさりと渼子はよしをしてその瞬間から柴犬は器に顔を突っ込んだ。ドッグフードは苦手なので汁から飲む。
渼子は空を見上げて不安そうな顔をする。浴衣の裾を気にしながら柴犬のご飯の器に視線をやり、また残してると呟く。
すぐにご飯を食べ終えた柴犬は満足気に舌で口を舐めるとその場でくつろぎ始めた。渼子は縁側から柴犬を見ている。インターホンが鳴った。
渼子の顔が綻んだ。はぁいと返事をして巾着を持つと、玄関へ走る。柴犬は首を上げ渼子の方を見た。渼子は柴犬を見ていない。知らない人の匂いがする。柴犬はわん、とひとつ吠えた。
「いってきます」
渼子の声がした。柴犬はつまらなそうに首を下げ、耳を立てた。渼子の声が遠のく。
柴犬は残したドッグフードを一粒口に含み、奥歯で噛んだ。咀嚼していると、ドッグフードが嫌いだった事を忘れそうで、忘れた頃にはドッグフードは口から無くなっている。三つぶ繰り返したところで柴犬は飽きて、くうんと鳴いた。渼子は居ない。
柴犬は鼻を鳴らした。時折ぷすっと音が混じる。渼子は居ない。
柴犬がうとうとし始めた頃、空から大きな音が降り花火大会が始まった。
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