短編小説 化粧をする女
弟は料理が上手い。週に一度こうして私の住処にやって来ては手料理を振舞ってくれる。
「真波、皿」
ぶっきらぼうに私を呼ぶが、私が化粧道具を弄っているとわかるとすぐにひっこめ、自分で戸棚の皿を選ぶ。今日は中華。よだれ鶏の辛いソースの香りがここまで漂ってくる。ただ、私の興味はそこにはなくて今日の口紅の色をどうしようかで悩んでいた。真っ赤なリップは飽きた。
食事の支度が整うと、そわそわと弟は私を呼んだ。視線だけ投げる。大柄で筋肉質な弟。
「髪の毛、伸ばしたら?」
私の提案に、少し考えるような素振りをするが諦めたように首を振る。こざっぱりと整えられた短髪が弟にはよく似合っている。私は苦笑すると席に着いた。
静かな食卓で食器の音だけが響く。弟は汗をかいている。
「これ」
私の呟きにも身体を跳ねさせる弟。
「美味しいね」
「…あぁ、よかったよ」
ご飯をかき込むように食べる。弟は緊張している。私は込み上げるよろこびを隠すようにスープを啜った。
「今日は公園まで行ってみる?」
弟の顔が赤くなる。はいともいいえとも答えない。
「無理強いはしないけど」
「わかってる」
そう、私たちはわかっている。お互いの望む事を。そしてよろこび方を。弟は躊躇した。違うか早いという事だ。
「今日はオレンジを試したいな」
弟の視線が私の化粧道具に向いた。その中に私が今日の為に買った深いオレンジ色のリップがある。それを今日、彼に試すのだ。
「赤ばっかりじゃなくて、他にも見てみたいから」
弟は赤いまま、小さく頷いた。興味があるらしい。どういう事か、彼は女の化粧に興味があり、それを私は手伝っている。手伝うというのは些か狡い言い方かもしれない。秘密を共有する事で、私たちは満たされているのだ。
洗顔を終えた弟と、向かい合うように座る。既にケアは済んでいて私はキャンバスに描く形を想像する。パフが触れる度、弟の息が上がるのがわかる。鏡もあるが、弟は全てを私に委ねている。瞼の上にある太い眉。いつかこれを整える日が来るかもしれない。私の背中は期待で小さな震えを起こす。オレンジの口紅。これを入れたら彼は何かから解き放たれる。私は焦らすよう頬にチークを入れる。紅潮する私たちの神聖な儀式である。上下のくちびるを重ね、弟は勢いよく弾く。違うな、と私は思った。弟には紅すぎるほどの赤が似合う。鏡を覗き込みながら弟は唇に塗られたそれを指で何度も弾く。
「気に入った?」
私が聞くと彼は頷く。よく分かっていないというのが正しいのかもしれない。
「私は紅の方が好き」
「色々試してみたかったから」
弟は一瞬だけ私に微笑みを投げる。すると彼がとてもオレンジに馴染んでいるように見える。