短編小説 はなむけ



 大福をひとつ、鞄の中に持っていた。美津は走った。早く丘に辿り着きたくて。そこには重雄がいると信じていた。
 丘には茂みがあり、それを抜けると拓けて海が見える場所がある。まだ重雄は居なかった。
 キョロキョロと辺りを見回してから、木の影に腰掛ける。美津は大きくため息をつく。
 戦時中の今でも、清貧に生きている人たちがいることを知っている。美津もそうだった、ついさっきまでは。鞄の中の大福は盗んできたものなのだ。海を見下ろして闇市を走り抜けた事を思い出す。怖かった。今になって足がガタガタと震え出す。怒号は美津に向かってかけられたものだった。
 背後から咳の音がして、美津は振り返る。重雄の顔を見ることは出来ない。美津は震える両足を両手で隠すように抱きしめる。重雄に見られてはいけない気がした。
「寒いのか?」
「ううん」
「震えてるじゃないか」
 重雄が美津を覗き込む。美津は顔から赤みが引いた気がした。
「熱でもあるんじゃないのか」
「大丈夫です、それより」
 美津はいいかけてはっとする。盗んだ大福をはたして食べさせて良いものかと。鞄を思わず尻の方へ隠す。訝しむ重雄は美津から鞄を取り上げた。
「あのっ」
 鞄の中には大福しか入っていない。重雄は美津の顔を見る。
「なんだい、これは」
「だ、大福です」
「ずいぶんと美味そうなものを持っているじゃないか」
 重雄は大福を取り出すと、慌てる美津の前で半分に割った。片方を美津に渡そうとする。
「それは私のものです」
 重雄は眉を顰め、美津に大福の片割れを持たせる。
「まさか自分だけで食べるつもりではないだろうね」
「もちろん重雄さんに食べさせたくて」
 重雄は薄く笑うと大福を一口で口内に放り込んだ。
「あっ」
 美津は狼狽えた。それは盗んだ大福なのである。重雄が汚れてしまった。美津は自分の浅はかさに涙が滲む。
「早く食べてしまいなさい」
 重雄は美津を覗き込む。美津はあぁ、と息をつき鼻をすする。重雄は美津から大福を取ると、また半分に割った。
「君にも食べてほしい」
 重雄は美津の口元へ大福を寄せた。美津は涙を浮かべながら大福を口に含んだ。
「甘いね」
「……はい」
 重雄は残った大福を再び自分の口の中に放り込んだ。咀嚼し終えると美津の肩をぽんと叩いた。
「味などわからないだろうに、よく食べた」
 美津はこの大福が盗品である事は墓場まで持っていこうと決めた。口を拭うとまっすぐに重雄を見つめる。
「この度はおめでとうございます」
 重雄は困ったように笑い、美津の瞳を見つめ返した。

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