短編小説 真由はアンダルシアの夢を見る




「寒くなってきたから上着が欲しい」と言った事を覚えていたのだろうか。お母さんは真由にダウンジャケットをくれた。
 焦茶色で、襟の部分にファーで縁取りがしてある古い型のダウンジャケットである。去年まではお母さんが着ていたダウンジャケット。お母さんは真由にお下がりをくれたのだ。
 うちは母子家庭だが、貧乏な思いをしたことはない。修学旅行も行けたし、三食食べている。だが服に限ってはお母さんのお下がりしか貰った事がない。
 玄関のハンガーラックには真新しいコートが掛かっている。ベージュで、長い裾の暖かそうな可愛いコートである。あれはお母さんのコートなのだと思うと真由は少し落胆し、がっかりするなんて悪い事だと思い直した。真由は貰ったダウンジャケットをお母さんのコートの隣に掛けてリビングに戻った。

「あっ、ポテト!」
 食卓にポテトフライの皿があった。今日の夕飯はハンバーグで、ポテトの皿は付け合わせだろう。真由はポテトフライが好きだった。ポテトフライは月に一度ほど食卓に上るご馳走だった。お母さんがふふ、と笑っている。真由はつまみ食いをした。するとお母さんは舌打ちをする。真由はしまった、と思った。
「お母さん、ダウンありがとう。明日から着てくね」
 慌てて真由はお礼を言う。お母さんはうん、と呟き箸を配った。
「いただきまーす」
 真由は努めて明るく食事をはじめる。お母さんもハンバーグに箸をつける。真由は箸を舐り、少し考えてからミニトマトを食べた。ポテトフライは少し食事が進んでから食べようと思った。


 外は寒い。真由は手のひらに息を吐きかけながら学校へと向かう。ダウンジャケットは暖かい。ただ、ベージュのコートを着たお母さんを思うと羨ましい。もっと言えば真由の選んだ上着を買って欲しかった。
 小さなため息をつく。背中から声がした。
「藤野」
 真由が振り返ると同じクラスの井上光輝が立っていた。光輝は真由の横に立ち歩き出す。
「服、違うじゃん」
 真由のダウンジャケットを指差す。真由は頷いた。
「お母さんのお下がり」
「へぇ」
 光輝は変わってんな、と呟いた。真由は何が?と思ったが問い返す事はしなかった。
「そういえばさ」
 光輝は学校とは反対側の向こうを指差した。
「シノミヤの跡地、ショッピングモールになったのな」
 シノミヤとは何年か前に潰れた、少し大きなスーパーマーケットの事だ。
「へえー、もう出来たんだ」
「映画も見れるらしい」
「だいぶ大きそうだね」
 真由が感心すると咳払いをして光輝は言った。
「見たい映画、あるんだよね。アンダルシア」
「あぁ、アンダルシア」
 聞いた事はあるが、真由はアンダルシアがどんな映画かは知らなかった。
「今度の土曜、行かね?」
「アンダルシア、えっ」
 真由が光輝を見上げると光輝は歩くスピードを上げた。どんどん距離が離れてしまう。
「待って」
「行かね?」
 光輝は立ち止まり、真由の方に振り返る。
「行きたいけど、お小遣い……」
 真由はお正月にもらったお年玉で一年を過ごしている。映画を見るには心許なかった。
「映画、おごる」
「えっ」
 光輝は真剣だった。真由はそれは申し訳ないと言おうとしてやめた。映画に行きたかった。
「行かね?」
 光輝はゆっくり真由の目を見た。真由は頷いた。
「いく、行きたい」
「よし、じゃあ土曜に家まで迎えに行く」
 光輝は前を向き、歩き出した。真由が小走りでついていくとスピードを上げた。そしてどんどん先に行ってしまった。真由は途中で追うのをやめ、立ち止まって息を整える。顔が赤くなる。デートだ。一瞬浮かんだ思考を振り払うように顔を振る。だってこのままでは学校で光輝の顔を見られない。
 真由は息を吐き、吸ってからゆっくり歩き出した。


 真由は家に着くと早速財布を取り出して、その中身を数えはじめた。お年玉は五千円だったが、今日までに漫画本など、いくつか買ったので二千円ほどしか残っていない。映画は見られるかもしれないが他に何もできないだろう。お母さんに相談しなくてはならないと思った。
 今日は七時には帰るはずだ。真由は米を研ぐと炊飯器をセットした。
 真由は玄関に座り込んだ。ハンガーラックに掛かったダウンジャケットを眺める。お母さん、コートを貸してくれないかな。頼めば貸してくれないかな。薄暗い玄関でお母さんを待った。

 米が炊けるころお母さんは帰ってきた。玄関に居た真由に少し驚いていたが漂うご飯の匂いにありがとう、と言った。
「お母さん」
 ハンガーラックに並んだベージュのコートを見ながら真由は切り出す。
「土曜日、コート貸してくれないかな?」
「どこかに行くの?」
 お母さんは答えず、台所へと歩いて行く。真由はその後をついて行く。
「シノミヤの跡地、もうお店できたんだって」
「あら、そうなの」
「それで、映画見に行きたいの」
「誰と?」
「イノウエ」
「そんな子いた?」
 真由の顔は少しづつ赤くなっていく。お母さんは真由を舐めるように見ると大袈裟なため息をついた。
「貸さないわよ」
「え?」
「行くのも許さない」
 般若のような顔をしていた。真由は思わず息を飲む。お母さんが怒っている。真由は自分が何をしたのか必死で思い返す。
「色気づいちゃって、気持ち悪い」
 真由はごめんなさいと呟いた。しかしお母さんの怒りは収まらない。知らない人に怒られているような気分だった。
 真由は足取り重く自分の部屋に帰る。扉を閉めるとすぐに涙が溢れてくる。でもお母さんに知られてはいけないと思う。必死で声を殺す。しかし涙は止まらない。
 お母さん、私がいけなかったんです。
 お母さん、私を愛して。
 お下がりでいいので、私を愛してください。
 真由はその日部屋から出られなかった。


 金曜日の帰り道、河原で光輝が待っていた。同じクラスなのに約束をしてからずっと話もしなかった。
 ダウンジャケットの襟を撫でる。何も話さなかったのは、何を言っていいのか分からなかったからだ。沈黙の中、口を開いたのは光輝だった。
「明日、迎えに行くから」
 真由はすっかり行く気を無くしていたので断らなければと思った。だが口から出たのは正反対の言葉だった。
「ありがとう」
「じゃ、十時ごろ」
 行けばお母さんに怒られる。だが光輝を断る言葉が見つからない。気付けば真由は帰ろうとする光輝の背側から、服を掴んでいた。光輝は驚いている。
「何?まだなにかあった?」
 真由は慌てて手を離す。光輝は少しの間真由の目を見つめ口を噤んだ。
「私、明日、行けないかも」
 ぽつりぽつりと真由は言葉を絞り出す。光輝はじっと真由を見る。
「明日、絶対迎えに行く」
 真由は顔を上げる。光輝と見つめ合い、目を逸らした。このままでは泣いてしまうと思った。
「じゃあ、明日な」
 今度は光輝の背中を見送る事ができた。真由は首に当たるダウンジャケットのファーが痒くて、痒くて襟をぐっと掴んだ。


 土曜日、お母さんは仕事だった。真由が起きるとすでにお母さんの姿はなく真由はほっとした。
 そもそもお下がりしかないけど、お洒落をするには知識がなくいつものような服装に着替えた。あと一時間はあるが真由は玄関に向かう。
 焦茶色のファー付きダウンジャケットを見る。隣にはハンガーが掛かっている。お母さんのベージュのコートがあったのだ。
 早く来て。真由は祈った。この家から出て、映画を見る。なんと贅沢な事だろう。
 映画に行って、お昼を食べて、お喋りをする。これをデートと呼ぶかはわからないが、真由は待っていた。
 唐突に玄関の鍵を開ける音がした。真由はぎくりとドアを見遣った。お母さんが入ってくる。
「お母さ……」
「朝ごはん、買ってきたよ」
 お母さんの手には白いビニール袋が下がっている。
「どうして」
「どうしてって何よ、変な子ね」
 お母さんはベージュのコートを脱ぐとハンガーラックに掛けた。真由は立ち尽くす。唾を飲み込む。
 チャイムが鳴った。光輝が来たと思った。
 真由は玄関に下り靴を履く。慌てて外に出ようとする。ダウンジャケットが目に入る。ファーの痒いダウンジャケット。だがこれが真由の唯一の上着なのだ。
「真由!」
 お母さんが怒鳴る。真由はダウンジャケットを乱暴に取ると急いで外に飛び出した。光輝がきょとんと立っていた。
 真由は乱暴に扉を閉めて家を飛び出した。光輝が首を傾げながら追ってくる。
 真由は飛び出した。ダウンジャケットを握りしめながら懸命に走った。

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