短編小説 ヤスコ
孝弘が裸のままベッドを抜け出し、カーテンを開けると今日は快晴だった。釣りにでも行くかと考えながらベッドに戻り、枕元のペットボトルを手に取る。まだすやすやと寝息をたてている女を眺めながら水を飲む。女の名前はヤスコと言う。ヤスコについて知っているのは身体以外はこの名前だけだ。
「ヤスコ」
名前を呼ぶとヤスコは薄目を開ける。ぼんやりしている。孝弘は水を飲みながらヤスコの乳首を指で触った。身を捩り、布団の中に深く沈むヤスコは色が白くて長い黒髪がよく映えた。恨めしげにこちらを眺め、布団から顔を上半分だけ出している。キスをしようと顔を寄せると、ヤスコの顔は全て隠れた。
「照れてんの?」
ヤスコは首を横に振る。
「ハミガキしてから」
布団越しに蚊の鳴くような声がした。
「歯ブラシねーよ」
「じゃあしない」
ヤスコはまた目だけを布団から出す。
「シャワー入れば」
提案には頷き、布団ごとベッドから立ちあがったヤスコをふいに抱きしめたくなった。腕を伸ばすとヤスコは素直に胸におさまり、幼児にするように孝弘の背中をポンポンと撫でた。
「見た目にしては甘ったれなのね」
孝弘の胸に顔を埋めヤスコは言った。孝弘は急にヤスコの名前しか知らない事が怖くなった。キスをする。すぐにヤスコは嫌そうに離れる。もう一度と思ったがヤスコは胸から逃げそうだ。滾るのがわかる。抱きたかった。
ヤスコはシャワールームに入るとすぐに水を流し始めた。その間に抜いて済ませた。タオル一枚のヤスコから水が滴る。孝弘は何かを話かけたかったが、何を話したいのか分からなかった。ただ、ヤスコと過ごす時間に続きが無いのは耐えられないと思った。
「次、いつ会う?」
「え?」
ヤスコは拍子抜けした様子で孝弘の顔を眺め、あぁ、と独りごちた。
孝弘はヤスコが髪をかきあげるのを見ていた。
「水曜の夜」
水曜は四日後だ。
「今日の夜は?」
「いいけど」
「準備もあるだろうから」
夜までは時間がある。必要だろうか、と孝弘は思った。
「どこかに連れて行くの?」
「どこかに行ってもいい」
「なにそれ」
ヤスコは小さく笑い、洋服を探していた。そのままでよかった。ずっとここにいればいい。孝弘は願った。
「歯ブラシ買おうか」
「えー」
ヤスコは着替えると髪のタオルドライを始めた。孝弘はヤスコのそばへ行き濡れた髪を指で弄んだ。
「乾かして」
上を向くヤスコの髪に顔を埋めた。そして目を閉じる。他人をどうこうしたいだなんて思ったのはこれが初めてだった。
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