短編小説 思いこみの男
若い女が、好きだった。若ければ多少の性格の悪さは許容できるし、化粧をしていなくても問題は無かった。
依子とそろそろ潮時だと思ったのは電車で席を譲った子供から「ありがとう、おばさん」と言われたのを見たからだった。依子はにこにこ子供に笑いかけ、俺にも笑みを向けた。
30女を捨てた、と言われるのは怖かった。依子はもう32になる。結婚の話こそ出ないが依子は子供が好きだった。浮気でもしてくれたら何かのきっかけになったのだろうが、依子は面倒臭がりでインドア派だった。出会いがない。
面倒臭がりなので家事も折半だった。各々洗濯をし、料理は交代で、一緒に片付けをすることもあった。
上手くいっていた。付き合いを続けるという場合に限っては。
テレビでゲームをする依子を後ろから眺める。鼻歌を歌いながら部屋着の彼女は麦茶を飲んでいる。声をかけたいが何も話したくはない。
「あっ、くっそ」
依子は呟く。ゲームでミスをしたようだ。俺は人生におけるミスをしないためにそっと依子から離れた。
拓史に電話をかけた。居酒屋で飲んでいるという。俺は服を着替えた。ゲーム中の依子の背中に声をかける。依子は少しだけ振り返り、行ってらっしゃいと言った。帰り遅くなるかもと言うと、麦茶を飲んだあと立ち上がり俺の目の前に立った。
「終電で帰って」
不貞腐れたような顔をする。化粧をしていなかったが依子は美人だった。少なくとも俺は、依子がするようなくちびるの形が好きだった。
「わからないよ」
軽くキスをして、依子の肩をぽんと叩いた。
「終電で帰らないなら、行かせないぞ」
依子はぎゅっと腰に抱きついてきた。軽い束縛である。しかし、この女は32なのだと自分に言い聞かせるとすぐに離れることができそうな気がする。依子の頭を抱き、軽く髪を撫でた。さらさらの髪の毛だった。下を向けば足の爪にはコバルトブルーが乗っていて胸が踊った。
しかし俺は依子を引き剥がすといそいそと玄関に立った。
靴を履きながらこれから依子が結婚するとしたら、案外いい奥さんになるような気がした。その隣にいるのが俺じゃないとしても。依子は子供が好きだし、母親になっても違和感がないような気がした。
俺は「鍵閉めて」とだけ残して夜の街にくりだした。依子はまたゲームを続けるのだろう。振り返ると依子は玄関から顔だけ出してバイバイと呟いた。ドアは閉まり、鍵をかけた音がする。
覚えていたら帰り、コンビニでアイスを買って帰ろうと思う。