短編小説 待ちかねて、春
カクタさんの送別会の帰り道、沙都子はコンビニに寄った。酔いを覚ますのに水でも欲しかった。あの忌まわしい送別会のことはさっさと忘れてしまいたかった。
手酌が一般的な昨今、カクタにお酌をしながら肩を揉まれていた沙都子はこのクソジジイが次の職場でぼっちになるように呪いをかけてきた。
「いい人はいないのかね」などと言われるうちが花と思い笑みを返した。「やぁだ、セクハラですよ」と軽く流したつもりだったが目だけはうまく笑えなかった。育休の取得云々と話が流れた時、ようやくトイレへ逃げ出せた。
手を洗い、深いため息をつくと沙都子は座敷の様子が気になる。そういう性分なのである。沙都子の噂をしているに違いなかった。大声で笑っているに違いなかった。
思わず滲んだ涙をハンカチで押さえる。子供じゃないのだからこんな事で泣くのは馬鹿らしかった。ただ、彼らの笑いは余裕からきていて、沙都子の涙は追い詰められた者のそれだった。子供じゃないから沙都子は笑った。
水のペットボトルを取り、のど飴の棚を物色する。蜂蜜入りの甘い物にする事にした。
お金を払う段になり、やけにタッチパネルがぼやけると思った。コンタクトを無くしたのかもしれなかった。店を出てすぐ、水をラッパ飲みすると胃が動いて気持ち悪い。飴を舐めながらコツコツと靴音を立て歩いていく。沙都子は静かに冷えた自室の様子を想像した。
沙都子にはお似合いなのかもしれなかった。温かい家庭というものに憧れはあるがそれは他所にあるもので、自分のものになり得るという事がどうしても想像できなかった。自分が優しいパートナーの隣で母親になり得るということも。事実沙都子の家はいつの間にやら崩壊し、各々が好きに生きている。沙都子も例外ではない。ただ、羽目を外すことなく真面目なのが性分なのである。飴を噛んだ。ガリっと音を立てて飴が砕け口の中に蜂蜜の甘さが広がる。
「結婚したいっ」
ガリガリと音を立てながら沙都子は呟いた。目の前に異世界のゲートが広がることもなく、曲がり角からイケメンがぶつかってくることもなく、沙都子は歩く。昔から自分勝手な男を捕まえてしまう沙都子は恋愛が怖い。温かい家庭も自分と遠すぎて怖い。
ただ、この喪失感や寂しさはどうやって埋めていけばいいのかはわからない。異世界へのゲートを待ち望んでいる。沙都子の口のなかは空っぽである。甘い飴ならある、あと少しなら。