短編小説 生命体について
確かに震えていた。コウイチは恐ろしかった。目の前にいるナオコが知らない女に見えていた。
「ねえ」
口角を上げながらナオコが顔だけ近づいてくる。
「 八ヶ月のあいだずっとお腹が大きくなり続けて、ある日急に自分とは違う生命体が産まれたら」
恐ろしいのは滑稽な例え話である。
ナオコは妊娠したに違いない。これが震えの正体である。
「あなたなら、どうする?」
近い割に興味も無さ気にナオコはコウイチに息をふきかけた。額に汗が滲む。遠回りな告白にコウイチはパニックをおこしている。
救いがあるとすればナオコは みんなのいもうと である事であった。
ナオコの問いの最適解は「パパに相談する」である。ナオコはパパと思しき者に相談をして回っているに違いなかった。
「お、俺なら」
声が上ずる。コウイチは一度咳をしてから斜め上を向いて答えた。
「ビックリするかな、まず」
ナオコはプッと吹き出した。
コウイチは産ませてはならぬと心に誓った。ドミノがパタパタと倒れるように順序だって進行させてはいけないと思った。子供は宝。愛し合った男女から、産まれてくる尊い存在でなければならず、起きたから落ちていたジャージを引っ張って着るようなそんなだらしない行為の産物であってはならないのだ。
「ビックリするよね、私もそうかな」
「まぁ、気づかないという事は無いだろうけどな」
「そうね、妊娠を疑うよね」
あっ、しまったとコウイチは思った。話は核心に近付いてしまった。自身も誰ぞやのようにうるせえなと一蹴すれば良かったのである。汗が垂れる。
「ナオコならどうする?」
質問を返した。ナオコは腹を撫でている。せっかく口角を上げた笑顔も張り付いてしまっている。
「見守る」
「えぇ…」
女なら、と構えたがナオコはのんびりし過ぎである。ある日の例え話が現実になりそうである。
「見守って?」
「一緒に暮らそうかな?」
よかった。ようやく現実的な意識が垣間見えた。
「でも楽しいと思う?」
「どうだろうね、世話ができるなら楽しいのかもしれないし」
「世話ねぇ」
「おむつをかえたり、ミルクをやったり色々あんだろ」
「コウイチできる?」
「できない」
「じゃあむりか」
「何が?」
「生命体と暮らすの」
生命体という言い方が気になるが、一つ、ここで話は決着したように思えた。コウイチは負けなかった。勝負の行方はわからないが。
煙草を吸おうとベランダに出た。
月がふたつ出ていた。一つは左右に動いたような気がした。