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【東京ひとり散歩】東京メトロ半蔵門線を歩く

先日は半蔵門線を歩いてきた。
どちらから歩くか迷ったけど、前週に浅草線を押上に向かって歩いたので、今回は押上から歩いてみる。

9時39分 押上(スカイツリー前)駅

どの道を歩くか考えずに出られるところから出てしまったら、スタートからちょっと迷った。

上:錦糸公園とロッテホテル  下:下から見上げたスカイツリー

写真の順序が逆になってしまった。スカイツリーを見上げてから錦糸町駅に向かって錦糸公園を通り過ぎた。ロッテホテルはコロナ禍に都内から出られないけどホテルに泊まりたい欲が高まった時、子供達が喜びそうかなと思い泊まったことがある。その時のことはまた追々書けたら書こう。

10時01分 錦糸町駅

錦糸町駅は、1894年(明治27年)に総武鉄道の本所駅として開業、1907年(明治40年)に鉄道国有法により買収され国有化、1915年(大正4年)に錦糸町駅に改称された。錦糸町駅になる前に一瞬錦糸掘駅だったことがあるらしい。錦糸掘は錦糸町駅の北口の北斎通りにあった掘で、「岸堀」が訛ったものなど諸説あるが由来は不明。本所七不思議の「おいてけ掘」は錦糸掘のこととされるとあるが、本所七不思議、名前は聞いたことあるけど内容を知らない。調べたいことが増えた。おいてけぼりという駄洒落も気になる。

四之橋(よんのはし)の下の歩道

1月4日の午後に一人で酒屋さんと亀戸天神行った帰りにも歩いた道。約2週間ぶりに同じ道を歩く。歩いている時間帯も人も違うので飽きない。

10時15分 住吉駅

住吉駅の所在地は新宿線は江東区住吉だけど半蔵門線は江東区猿江。先に開業し新宿線の駅が住吉にあるから住吉駅、なのだろうか。
住吉の由来は、1934年(昭和9年)に深川猿江裏町の一部と深川東町の一部と深川本村町の一部が合併して深川住吉町となり、1968年(昭和43年)に住吉に改称とのこと。Wikipedia情報によると、縁起の良い「吉」の字を用いた、住み良い街にしようと願いを込めた、など、諸説あるようだ。

小名木川橋

小名木川に架かる小名木川橋。歌川広重の名所江戸百景「小奈木川五本まつ」のレリーフがあった。名なのか奈なのか、江戸時代から名だけどあえての奈なのか。現在の橋は1988年(昭和63年)に架け替えられたもの。

扇橋

江東区扇橋の地名の由来となったという扇橋。江戸時代に町名をつけたということだから、それ以前からは扇橋は存在していたのだろう。しかしそれがこの扇橋なのかどうか分からない。今の橋がいつ架けられたものかも調べられず。

10時41分 清澄白河駅

清澄白河は、「清澄」と「白河」の2つの町名にちなんだ名前。清澄は、弥兵衛という人が開拓して弥兵衛町と呼ばれていた町が、地形が安房国の清済(清澄)に似ていたことから清住町となり、その後に伊勢崎町などと合併して清澄町になったらしい。白河は、白河藩主の松平定信にちなんだらしい。

清川橋

清川橋は綺麗な青色。竣工が1962年という情報が出てくるけど、昭和61年(1986年)に架け替えとの情報も出てくる。24年で架け替えは早いような気もするが、どうなんだろう。塗り直しは最近している感じの鮮やかな青。

隅田川大橋

隅田川大橋は完成したのは1979年(昭和54年)。私より年上だった。
上に首都高が走っていて、変な緊張感がある。首都高の下を歩くことは珍しくはないけど、距離が近くて長い。緊張感はありながらも、橋の上からの眺めが良い。左右の景色の雰囲気の違いが面白い。
半蔵門線はここの地下を通っている。(今回は地図を見ながらなるべく線路に沿って歩くようにした。実際には線路は見えないけど。)

11時03分 水天宮前駅

水天宮前駅は蛎殻町にある。開業前の仮称は「蛎殻町」だったが、1990年に営団が「箱崎」と決定したものの、営団と地域住民、住民同士でも意見が対立し、地域名は付けないことにして水天宮前に変更したらしい。水天宮に行きたい人にとって、分かりやすくて良い。水天宮前駅ではなく水天宮駅にしていたら、泉岳寺みたいな揉め事が起こったりしたんだろうか。

上:水天宮、下:江戸橋

水天宮は、次男を妊娠中にお参りに来た。まだ工事中の時期だった。
この日は平日だし12時以降は会社員の方々で混み合うだろうから、11時くらいに早めのお昼ご飯を食べるつもりだったのだが、水天宮周辺は平日でも人が多く美味しそうなお店がたくさんあったが入りそびれた。
江戸橋は前週に渡った橋。この日は渡らず、橋を左手に進む。

11時21分 三越前駅

三越前駅は、日本初の企業名を冠した駅。銀座線は最も古い地下鉄として1927年(昭和2年)に上野-浅草間が開通したが、延長するための資金不足に陥っていたところを、三越・三井グループが建設費を負担した。初めて駅構内にエスカレーターを設置した駅でもあるらしい。駅の壁面には三越の「三」をイメージした3本ラインがあり、駅と地下売り場を結ぶ通路も意匠を凝らしているものとのことだが、三越前駅を利用したことが1度か2度しかなく記憶がない。駅の壁めぐりも楽しそうだな。

上:日本橋、下:道路元標複製

三越前駅は日本橋に出る出口もある。本日は日本橋も渡らずに直進。
日本橋の日本国道路元標は、主要国道7路線の起点標。モニュメントになっているのはレプリカ。本物は日本橋の車道上にあり見るのは危険なため橋のたもとに設置されている。

ときわばし

「ときわばし」は、上流側の歩行者専用の常磐橋と、下流の道路橋の常盤橋がある。この日渡ったのは常盤橋。
最初に常盤橋が築かれたのは1629年(寛永6年)だが、大火、地震、火災、大地震、大地震が起こるたびに修復、今の常磐橋は1877年(明治10年)に小石川橋門の石垣の一部を使って造られ、1926年(大正15年)に常盤橋が建設された。
通るルートの予習をしていないから、江戸三十六見附を回りたいと思っていたのに、その一つの常盤橋門周囲の常盤橋公園、じっくり見られていない。常磐橋の上を歩いたのも1年以上前で何も考えずに歩いていたから、土木遺産訪問しつつ三十六見附も、時を改めて訪問しよう。

渋沢栄一がいた

王子に住んでいたからか、渋沢栄一にはちょっと敏感に反応する。常盤橋門の石垣保存に功績があり、ここに銅像が建っているらしい。渋沢栄一、一人とは思えない働きをしまくっている。凄すぎる人物。大河ドラマ観てなかったけど、観てみようかな。NHKオンデマンドも契約してるし。大相撲大好き人間なのでNHKも好き。

11時37分 大手町駅

大手町駅は、丸ノ内線散歩参照。

読売新聞社前

今年の青山学院のプレートは、まだなかった。「絆」のブロンズ像。像の周りを一周してみたが作者の方のお名前を見付けられず、この記事を書きながら調べてみた。
作者の方は松田光司(まつだみつじ)さん。フリーの彫刻家として活動されている方。これまでに見たことあるものだと、学士会館のところにある日本野球発祥の地モニュメントも手がけられている。彫刻で風を感じられる表現が出来るのが凄い。表情も生き生きしていて観ていて思わず同じ表情になる。

信号の名前が違う

スマホのマップも手元にある23区地図も、信号が「気象庁前」になっている。現地で確認したら「東京消防庁前」。気象庁は大手町から2020年に虎ノ門に移転している。

錦橋

この日は、「なるべく線路に沿ってあるきながら、橋に着目しながら散歩しよう」と思っていたのだが、大手町を過ぎたあたりからめちゃ空腹。足取りも明らかに重くなり、この橋は渡り終えたところで「あ、橋を渡った気がする」と気付き戻った。
この錦橋も、関東大震災の復興橋の一つ。1927年(昭和2年)に架橋。錦町や旧地名の錦町河岸から名付けられた。

12時01分 神保町駅

神保町駅は千代田区神田神保町にある。戦国大名・越中神保氏の一族の、旗本・神保長治の屋敷があったため神保町となったようだ。

さて、お腹が減り過ぎてそろそろ限界。暖かい日で、1月なのにちょっと熱中症気味。ヒートテックとダウンパンツが仕事をしっかりしていて暑い。体を休めた方が良さそうだ。
お昼ご飯はピークタイムとずれて食べようと思っていたが、体の都合によりちょうどお昼時に食べることになった。神保町は大学も企業も多いから飲食店がたくさんある。カレーの街だが、私はカレーは甘口しか食べられない。なんなら甘口でも辛味を感じる時もある。カレー屋さん以外でどこが良いかなとキョロキョロしてみたら前から行きたかった新世界菜館さんが道路を挟んだところにあったので、迷わず入店。

五目入りかたやきそば

熱中症気味で空腹だけど胃腸が不調な気がしたから中華ぞうすいを頼むつもりで入ったのに、メニューを見ていたらガッツリ食べたくなり、五目入りかたやきそばを頂いた。ボリュームたっぷり。エネルギーも栄養も十分に摂取。美味しかった。ごちそうさまでした。

12時33分 神保町駅

お昼ご飯、ゆっくり頂いたつもりだったのだが、自覚していたよりがっついて食べていたのかもしれない。体感1時間経ったかと思っていたけど30分しか経っていなかった。
再スタート。

俎橋

「俎」が「まないた」だと、年末から年始にかけてこの道を3回通りやっと覚えた。覚えたと言っても、読めはするが書けはしない。
こんなにインパクトのある橋名だが、由来ははっきりしないらしい。はっきりはしないが、江戸時代に御台所町が近くにあったことが関係していると言われてはいるようだ。橋が2枚の俎を渡したような板橋だったことによるとする説もあるみたい。
橋自体の歴史も江戸初期からと長いが詳しい年代は不詳。現在の橋は1983年(昭和58年)に架け直されたもの。

12時42分 九段下駅

九段下駅は、九段坂の下にあるから九段下だそうだ。九段坂の上には靖国神社がある。
中野坂上駅みたいに、九段坂下駅にはならなかったんだなぁ。
「九段」と呼ばれるようになったのは、幕府が江戸城に勤務する役人のために傾斜地に沿って九層の石垣の段を築き御用屋敷を作ったことかららしい。

上:瀧廉太郎居住地跡、下:坂が多い

千代田区一番町に瀧廉太郎が高等小学校卒業後の1894年(明治27年)に上京してから、1901年(明治34年)4月にドイツに行くまでの8年間住んでいたとのことで、レリーフも設置されていた。瀧廉太郎、ドイツに5月に到着してライプツィヒ音楽院に入学した5ヶ月後に結核感染が判明して退学、帰国し療養するも1903年(明治36年)に満23歳で死去。若すぎる。

この辺りの道、マップ上は平坦と書かれていたけど、坂が多かった。
御厩谷坂はおんまやだにざかと読む。読めない。徳川将軍家の厩舎があったことが由来と言われている。
袖摺坂は狭くて袖が摺れ合うから名付けられたと言われている。同じ由来で同じ名前の坂が神楽坂にもあるような気がする。

13時00分 半蔵門駅

半蔵門駅は江戸城三十六見附の半蔵門に由来。半蔵門線唯一の単独駅。半蔵門駅以外は他の路線も乗り入れているのか。半蔵門駅以外の半蔵門線沿線に住んだら2路線以上が使えるのね。便利。
江戸城三十六見附、半蔵門駅ついでに半蔵門を見に行けたら良かったのだが、全然意識せずにスルーしてしまい、帰宅後に家族に行ってきたか聞かれて気付いた。地図で確認したら、少し離れているっちゃ離れている。昼食後はお腹がいっぱいでルートから離れて歩く余裕がなかったので、気付いていても多分行けていなかった。
半蔵門の名称の由来の定説は、この門の警固を担当した徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するというもの。服部正成が通称半蔵だと思っていたのだが、子の正就の別名も半蔵だったのか。服部半蔵といえば伊賀忍者のイメージだけど、伊賀忍者の頭領ではなく、働きも忍者の働き方ではなく武功を駆使したものだったようだが、指揮官として忍びを放ったり伊賀者甲賀者と行動したりと、関わりは多かったようだ。

また坂である

山手線の内側は坂が多い。永井坂は、昔この坂道を挟んで、ほぼ向き合って2つの永井姓の武家屋敷があったから、というのが由来と言われている。
千代田区、橋や坂など千代田区観光協会のHPで簡潔に紹介してくれているの、ありがたい。

13時15分 永田町駅

永田町駅は、千代田区永田町にある。
江戸時代、このあたりが武家地で、馬場のあった道筋に永田姓の旗本屋敷が並んでいたため永田馬場と呼ばれていたことが由来。江戸時代中頃から永田町と呼ばれ始め、1872年(明治5年)に正式に永田町の町名が誕生。
永が多いな。永井坂の永井姓と永田町の永田姓は何かしら関係あるのかしら?

赤坂門跡

永田町から赤坂見附に向かう途中に赤坂門跡があった。赤坂門自体は、建築部分は1871年(明治4年)に撤去、石垣も明治30年代に撤去されたそう。
上の写真が一部残っている石積かと思ったのだが、左側にあった石積が残っているものだったかもしれない。江戸城三十六見附、路線散歩ついでじゃなくて、改めて三十六見附巡りとして巡った方が良いかもしれない。(土木遺産とも別に巡った方が良いかもしれない。思考があっちこっちに行き、集中できなそう。)

豊川稲荷

赤坂見附を過ぎたら鮮やかな赤い提灯が目を惹く。豊川稲荷だった。正確には、豊川稲荷東京別院だった。豊川稲荷は白い狐にまたがる豊川ダ枳尼眞天をお祀りしていて、そのことから「豊川稲荷」が通称として広まった曹洞宗の寺院。稲荷だけど神社ではない。

とらや赤坂店

半蔵門線散歩のルート上にとらやがある。御菓印、ちょっと前から気になっていた。お菓子は和菓子も洋菓子も中華菓子も、なんでも好き。御菓印をもらえるのは限られた老舗和菓子店本店ではあるが、御菓印を目的にしつつも色んな土地を訪れるきっかけにも出来そうだし、迷いながらも手を出してしまった。集め始めたら行けるところを行き尽くさないと落ち着かない性格。時間もお金もかかりそうだから、ちょっとずつしかまわれないと思うので、30年くらい御菓印制度が続いてくれることを祈る。
散歩中はなるべく荷物は増やさないようにしているのだが、とらやで羊羹を買わないのは自分的にあり得ないので、ラムレーズン羊羹とはちみつ羊羹を購入。

上:赤坂地区の旧町名由来板、下:伝統工芸青山スクエア

伝統工芸青山スクエアは、2年前くらいに中学受験の学びになるかな、と長男を連れて行ったけど、当時の長男は伝統工芸にさほど興味がなかったと思われるので、私が楽しかっただけだった。しかしながら、とても分かりやすい地図をもらい、受験が終わってからもしばらく壁に貼っていた。(私が楽しんで見ていた。)

13時54分 青山一丁目駅

青山一丁目駅は東京メトロは北青山一丁目、東京都交通局(都営地下鉄)は南青山一丁目にある。銀座線建設当時の町名は、赤坂区青山南町一丁目・青山北町一丁目。南北の境界が地下鉄が走る青山通り。実は歴史上「青山」という町名はないらしい。

上:神宮外苑いちょう並木、下:avexがパソナになってた

外苑のいちょう並木、秋は人が多過ぎて通る気力が湧かないのだが、この時期は人が少なくて好き。葉がついていない並木も、それはそれで趣がある。

14時12分 表参道駅

表参道駅は、1938年(昭和13年)、青山六丁目駅として開業。(今の住所は北青山三丁目。)青山六丁目駅、青山四丁目駅、青山一丁目駅、とあり、下車駅を間違える人が多くいたため翌年の1939年(昭和14年)に神宮前駅に改称。1972年(昭和47年)に千代田線の表参道駅が開業して銀座線の神宮前駅も同名に改称。明治神宮の表参道と青山通りの地下に位置しているので表参道駅となったようだ。
ちなみに、1913年(大正2年)に開業している名古屋鉄道の名古屋本線の駅に神宮前駅がある。熱田神宮の前に位置する駅。

こどもの城の前にある「こどもの樹」

こどもの城は2015年に閉館した施設。我が家は利用しないまま閉館してしまった。ここの前にある岡本太郎作の「こどもの樹」は見ることが出来る。というか、相変わらず目立っている。跡地がどうなるのか気になるところだが、2024年12月のニュースで、都立中央図書館をこどもの城を含む周辺に移転検討とのニュースがあった。こどもの樹は残して欲しいな。

14時28分 渋谷駅

渋谷駅は渋谷区渋谷にあるのだが、渋谷の由来が意外にも諸説ありすぎて、キーボードが不調なことも相まって入力しきれない。
ということで、以下渋谷区立図書館HPよりコピペ。

「渋谷」の名の起こりには以下のような説があります。
1  昔、この付近は入江であり、「鹽焼く里」の称が「塩谷の里」に変わり、「シホヤ」になり「しぼや」と訛って「しぶや」となったとする説(『渋谷町方書上』『新編武蔵風土記稿』)。
2  平安時代の終わりごろ、谷盛庄といっていた当時、領主河崎平三重家が京都在勤の時、禁中において盗賊渋谷権介盛国を搦め捕る手柄を立て、その功により土佐守に任じ渋谷を以て氏に命ぜられた。このことから、重家の領地であった谷盛庄が「渋谷」に変わったとする説(『金王八幡神社社記』)。
3  治承年間(1177年から1180年)に相模国高座郡渋谷庄の庄司平重国の所領だったことがあって、一族の者が移住して命名したとする説(『新編武蔵風土記稿』『御府内備考』『大日本地名辞書』)。
4  この地を流れる川の水が、鉄分を多く含み、赤さび色の「シブ色」だったため「シブヤ川」と呼ばれていたとする説。
5  渋谷川の流域の低地が、しぼんだ谷あいだったからとする説。
6  漢字字源説として、「渋」という字には平坦な土地が浸食されて凹凸を生じた地形という意味があり、「谷」の字と共に渋谷区域の地形からこれらの字をあてたとする説

渋谷区立図書館HPより引用

渋谷でどこかパン屋さんに行こうと思っていたけど、軽く熱中症気味(頭痛、口渇、頻脈気味)だったので、寄り道せず帰宅。
その日の夕方に、ふるさと納税の大量のパン詰め合わせが届いたので、パン屋さんに行かなくて正解だった。

この日は
歩行距離 21km
歩数 29206歩
でした。

以下、今回の記事を書きながら出てきたやってみたいこと
⚪︎本所七不思議を調べて、ゆかりの土地を訪問したい(都内の他の土地の七不思議的な話があるかも調べたい)
⚪︎歌川広重の名所江戸百景を見に行く散歩をしたい
⚪︎駅の壁などの内装を各駅ごとに鑑賞

とりあえず東京メトロと都営地下鉄を歩き終えてから他のことに手を出そうとも思うけど、長時間歩けなそうな時は、ちまちまと気になることを楽しもう。
今や私よりも相撲を好きになっている子供達を、台東区の玉林寺に連れて行かねばだな。次男が千代の富士を大好きなので。富岡八幡宮は、歩いて行くのは拒否されたから、メトロか都営地下鉄に乗って連れて行ってあげよう。

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