難聴に気付いて補聴器するまで②
中等度難聴についての前回の続きです。
普段は補聴器を着けています。先天性難聴のわたしが難聴とちゃんと向き合い、補聴器を着けるようになったのは社会人になってから。それまでの小学生〜高校生までの話を書きました。
今回は大学生活の話です。
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とにかく東京に憧れていたわたしは首都圏の大学に進学して一人暮らしを始めました。高校の授業で政治経済の勉強がいちばん好きだったので、国際政治について学びたいなと思い、国際学科のある大学に入学しました。
でも、毎日午前中2コマはみっちり英語の授業。ネイティブの先生になり、さらに聞き取れなくなり、トンチンカンなことを答えてあたふたする毎日。リスニングが絶望的に出来なかったので毎朝が苦痛で仕方なかったです。
一方で、キラキラな毎日を夢見ていたわたしは体育会系のマネージャーを始めました。練習は高頻度であり、しかも違うキャンパスでの練習も多く、移動だけで1時間。授業後に移動して練習して帰宅するともう日にちを跨いでいることも。そして翌朝には英語の授業。慣れない一人暮らし。ゴミの日にゴミもろくに出せずにベランダに溜まっていき、課題もやれず、生活が破綻していきました。
部活は辞めましたがそれでも授業に足が向かず。心配で友だちも気にかけてくれましたが、それでも限界を迎えていました。ただ、高校卒業したばかり。次の進路を決めなければ実家に帰るなんて出来ないと思い、作業療法士の勉強しに大学を入り直したいと親に話し、退学を決意しました。
高校生で進路を決める時、美容師を諦めてからは作業療法士の資格を取るかどうしようかとも迷っていました。
実家に帰り、毎日ひとりで勉強。図書館に行ったり、市の自習室を使ったり、浪人している友だちと連絡を取り合いながらも孤独な戦い。でもこれはこれで楽しかった。
無事に試験は合格し、首都圏の大学に進学しました。
困ったのはやはり授業でした。小さな教室サイズの授業も多かったです。その時は名簿順で座ることになっていて、常にいちばん後ろの席だったので、声の小さめの先生なんかは声が聞こえない。ぼーっと教科書を眺めていたり、手帳にバイトや遊びの予定を書き込んだりして、完全に違う世界に飛んでいたりしていました。
逆に大きい教室でやる場合はマイクを使って話してくれるので聞こえやすかったです。
年次が上がるごとに小さい教室サイズの授業が増えていき、苦痛を感じることも多くなりました。どうしようか悩み、友だちにも相談し、思い切って学科のLINEで、耳が悪いから誰か前の方の席変わってくれませんか?とお願いして、快く変わってくれる人がいました。とてもありがたかった。
4年生になると長期の実習がありました。ひとつの実習先は大きな病院。毎朝ナースステーションに集まり、申し送りがありましたが、開放的なナースステーションで、周りはガヤガヤ。すると全く聞こえません。実習指導者にも耳が悪いことを打ち明けると、「仕事していく上でそれではマズいことも出てくると思うよ。補聴器とかもあるし、そういうのはしないの?」と言われ、そこで初めて補聴器の存在を意識しました。
補聴器があることはもちろん知っていました。でも、中学生のときに詳しく検査に行っても異常なしと言われて、難聴とは言われてないし、補聴器着けることに対しての現実味もない。ただ聞こえが悪いのは事実としてあるけれど、これは一体なんなんだ?と思ってモヤモヤはしていました。
当時は一人暮らしだったので家族にはたまに連絡する程度。耳のことも少し話したような気はしましたが、改めて病院に行くことはなかったです。
学生時代、ドラッグストアのアルバイトもしていました。「ポイントカードありますか?」や「袋はご入用ですか?」と聞いた後のYes,Noが聞き取りにくいことはありましたが、あればカードや袋を出してくれますし、なければ出さないと言った感じなのでその辺はお客さんの反応を見て判断する。特に大きなトラブルはなかったです。
就職先を探すにのは少し聴力のことも気にしました。いいなと思った病院に1日見学に行きましたが、やはり朝のミーティングが全く聞こえない。ここはダメだなと諦めました。実習先のように、大きすぎるような病院はダメだなと思っていたのもあって、内情が分かっている、学生時代にアルバイトをさせてもらっていた病院にそのまま作業療法士として就職しました。
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大学生以降では聞こえないことでの困りごとが増えてきました。一人暮らしでなければ、じっくりと親と話したりして、じゃあ病院にかかってみようかとなっていたかもしれません。
社会人以降はまた次回書きます。
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