散髪プロジェクト
先日、夫の髪を切った。
今の家に引っ越して一年が経つのだけれど、私も夫もなかなか気に入る美容院が見つからない。なんとなく、まあいいかな、というぼんやりした感触のまま近所の美容院に通っていたのだけれど、毎回なんだかしっくりこない。
先月のこと、いつもの美容院へ行った彼はついに誤魔化しようもなくおかしな髪型で帰ってくることとなった。形容するなら、コボちゃんだ。田畑コボの髪型を再現しました、と言われたら強めに「うん」と頷けそうだった。しかし、あいにく夫は三十七才だ。髭もまあまあ濃い。髪型がコボになってもかわいらしくもなければ、当然しっくりも来ない。違和感だけが彼に張り付いていた。
違和感を張り付けたまま夫は一ヶ月辛抱した。私に「コボちゃん」と呼ばれても腐ることなく耐えていた。そして、一ヶ月が経ち、コボカットも潮時を迎え、そろそろまた美容院に行かなければならなくなった。が、件の美容院にはどうにもなかなか足が向かない。
ここで突然だけれど、我が家には子供が三人いる。三人いると、やれ養育費だ、やれ服だ、靴だ、幼稚園の授業料だ、お金はどれだけあっても足りない。
つまりムダ金は一円だって出せないのだ。
どんな頭になるとも知れないのに四千円を握らせて送り出すわけにはいかない。私は夫に、髪の毛を切らせてほしいと志願した。根拠のない自信があった。
これに成功すれば一年で四万八千円の削減になる。もはや一家の威信をかけた壮大なプロジェクトだ。ノーモアコボを心に大きく掲げて私はバリカンを走らせた。イメージは丸の内で働くびしっとしたスーツに身を包んだ三十七歳だ。
風呂場の鏡の前で夫は瞬く間にカッコ良くなった。夫の面倒にうねる髪の毛を見事に私は制覇した。トップはバリカンから鋏に持ち替えて、絶壁の後頭部も大きく張ったハチもうまくカバーしたと思う。上出来だった。夫も大満足だった。コボカットとは違う、なんの違和感もない三十七歳がそこにいた。
翌日、仕事から帰宅した夫に「ねえねえ、どうだった?誰かになんか言われた?」とワクワクしながら訊いた。だってこんなに上手にカットできたんだから。
夫は「いやなにも」と当然の顔。
私は瞬時に悟った。
違和感がない、ということは誰にもなーんにも言われないのだ。気配が消えているのだ。
私が一家の威信をかけて、手に汗を握って刈った頭が、誰からも、ただの頭として、ロクな認知もされずに一日を終えてきたのだ。このショック分かりますか。
対するコボカットはこの一ヶ月の間、夫の顔を見るたび、私の心の中に「コボちゃん」というほんわかワードを刻み続けていた。完全に負けである。プロジェクトは成功をおさめたけれど、拭い去れない敗北感が残った。
悔しいから、せめて私だけでも「ああ、絶壁がまあるくなってるな、うんうん」と一日一回は満足することにしている。