とうきょうたろう
太郎がとうきょうを拾ってきたのは、8月の第3水曜日だった。
その日は月に一度しかない危険ゴミの日だったから、よく覚えている。危険ゴミっていうのは、使い終わったライターとか空っぽの乾電池とかそういうもの。
丸くて白い大きな卵みたいなそれは、太郎の腕の中で、薄く呼吸をしていた。ゆっくり上下する背中に触れると、柔らかくてぬるかった。
「それなあに」
「個室の中に落ちてから拾ってきた」
太郎は丸くて白い背中をゆっくり撫でた。
太郎は駅前のネットカフェでアルバイトをしている。
とうきょうという名前は太郎がつけた。「変な名前」と言ったら太郎は「いいだろ」と言って笑った。
とうきょうには口だけがあって、それは体に不釣り合いなほど大きかった。
目も鼻も耳も手も足もないのに、ぱっくりと切込みみたいな口だけがある。
とうきょうが初めて食べたのは、ソーセージ。
とうきょうが家に来た日、生きているんだからなにか食べるのかもしれない、と冷蔵庫を開けてみたけれど、あいにく冷蔵庫の中にはポン酢と缶ビールとメントスしかなくて、太郎がコンビニまで食べものを買いに行った。
「なんでソーセージなの」と訊ねたら、「のび太はすぐ、犬にソーセージをあげるんだよ」と太郎が言った。
「とうきょうは犬じゃないじゃない」と言ったら、「犬かもしれないじゃない」と太郎が言った。
とうきょうはなんでも食べた。
お刺身も、フライドポテトも、ポッキーも、炊き込みご飯も、差し出したものはなんだって食べた。なんでも食べて、あっという間に大きくなった。
最初は太郎の掌からすこしはみ出すくらいの大きさだったとうきょうは、すぐに猫くらいの大きさになって、すぐに小柄な豚くらいになった。
「これ以上大きくなったらアパートじゃ飼えなくなるよ」
「大丈夫だよ」
「食べるものだってタダじゃないし」
「大丈夫だよ」
「それにわたし、とうきょうのこと、あんまり好きじゃない」
太郎は黙って、とうきょうにするめイカを食べさせていた。
とうきょうはするめイカを7袋も食べた。
とうきょうは実際、かわいくもなんともなかった。
鳴きもしないし、なつきもしない。ただ、差し出されたものを食べて、ただ、息をしていた。ご機嫌がいいとか悪いとかもなく、ただ、大きくなった。
最初は、白くて丸くて、なんだか悪くない気がしたけれど、わたしにとって、とうきょうは退屈で大きかった。
太郎がやたらとうきょうをかまうのも、ちょっと気に入らなかった。
*
不思議なことに、とうきょうはなにをどれだけ食べても、一切、排泄というものをしなかった。からだのどこにも肛門らしいものがなく、つまり、入り口はあるのに出口がない。まるで飲み込むみたいにいろんなものを食べて、からだを大きく膨らませていった。
小柄な豚くらいだったとうきょうは、夏が終わるころにはロバくらいになった。
そのころになると、とうきょうはなんでもかんでも飲み込んでいた。
お醤油をボトルごと飲み込んで、食パンも袋ごと飲んだ。ティッシュを箱ごと飲んで、洗濯かごも飲んだ。お鍋を飲んで、フライパンを飲んで、電気スタンドを飲んだ。
そしてある日、とうきょうを見たいと言ってやってきた、わたしの友達も飲んでしまった。とうきょうは大きな口をぱっくり開けて、マリコを飲んでしまった。
マリコを飲み込むとき、とうきょうは大きな口をことさら大きく開けて、まるで吸い込むみたいに飲んだ。マリコは声も上げず、消えるように飲まれていった。
*
その日から少し経って、大学やアルバイト先に行くと、いつも誰かがいないことに気がついた。茜ちゃんが欠勤してると思ったら、次に茜ちゃんが出勤することはもうなくなって、タカシが欠席していると思ったら、もう二度とタカシと大学で会うことはなかった。
ひとり、またひとりと、誰かが少しずつ消えていって、そのうち知り合いがひとりもいなくなってしまった。
たぶん、とうきょうが飲んだんだろう。
とうきょうがマリコを飲み込んだ日から、わたしはとうきょうをクローゼットに閉じ込めている。
とうきょうはずいぶん大きくなってしまっていたけれど、クローゼットの中身はとっくにとうきょうが全部飲み込んでしまっていたから、とうきょうは案外すっぽりと収まった。
太郎は、とうきょうがかわいそうだ、とかなしそうに言ったけれど、わたしはやっぱりとうきょうが好きじゃなかったし、なによりマリコを飲んでほしくなかった。
もうなにもとうきょうには食べさせないで、と太郎に言って、それきりわたしもとうきょうにはなにも食べさせなかった。
だのに、とうきょうのからだは日を追うごとにむくむく膨らんで、しまいにはクローゼットのドアははじけそうになっていた。
きっと、誰も彼もとうきょうが飲み込んでしまったんだ、と思った。
クローゼットの中にいるとうきょうが、どうやってみんなを飲み込んだのか知らないけれど、でもきっとそうなんだろうと思った。
そうとしか思えなかった。
*
クローゼットのドアは日に日に歪んでいった。
とうきょうの膨らんだからだが透けて見えるみたいに丸く歪んだドアは、とうきょうの呼吸に合わせてぎしぎしと嫌な音を立てた。
夜寝ているときも、ただぼうっとしているときも、太郎とくっつきあっているときも、ずっとクローゼットのドアはうるさかった。
そして、ある日、クローゼットのドアは、がたんとまぬけな音を立てて、外れてしまった。上の蝶番が壊れて、ドアはみっともなくぶら下がった。
その時、わたしは太郎の腕にしがみついて、薄くて曖昧な夢を見ていた。
夢の中にはマリコも茜ちゃんもタカシもいて、やかんもフライパンもまな板も玄関マットも全部あった。
けれど、みんななんだかちがう。わたしが知っているマリコや茜ちゃんや、タカシややかんやフライパンと、なんだかちがう。まな板だって玄関マットだって、傘立てだって、なんだか全然ちがう。
どこがちがうんだろうとぼんやり考えるんだけれど、頭がうまく働かなくて、考えれば考えるほど、みんな輪郭がぼやけてしまって、よく見えなくなってしまった。
夢だったらいいのに、と思いながら、夢じゃなければいいのに、とぼうっとした頭で考えている、そんな夢だった。
*
当然だけれど、とうきょうはついに太郎を飲んだ。
クローゼットのドアが壊れてからも、もちろん、とうきょうはどんどん大きくなって、ある日、アルバイトから帰宅したばかりの太郎をきれいに飲んでしまった。
「ただいま」と太郎がドアを開けた瞬間に、とうきょうはまるで待っていたみたいに太郎を飲んだ。
あまりに鮮やかで、見惚れるような飲みっぷりだった。
とうとう太郎もいなくなってしまった。
*
とうきょうはいつわたしを飲むんだろう、とずっと思っていたけれど、いつまでたってもとうきょうはわたしを飲まなかった。
今日こそ飲むだろう、と毎日、帰宅するのだけど、とうきょうはいっこうにわたしを飲まない。
太郎みたいに、ドアを開けた瞬間に飲まれるところを想像して、毎日アパートのドアを開けるのだけど、ドアを開けても閉めても「ただいま」と言っても、とうきょうはわたしを飲んではくれない。
ただ、むくむくとますます大きくなって、ただ息をしていた。
「ねぇ、どうしてわたしのことは飲まないの」
床も、天井も、なにもかもほとんどがとうきょうになってしまった部屋の隅っこに小さく丸まって、とうきょうに言った。
とうきょうはやっぱり、ただ息をしていた。
*
知っている人が誰もいなくなった大学へ行ったあと、知っている人が誰もいなくなったアルバイト先へ行って、とうきょうだけがいる部屋に帰る。
そんなふうに暮らしていたある週末だった。
インターフォンが鳴ったので出ると、知らない人がいた。ふたりも。
「はい」
「こんにちは。そちらにいる、とうきょうのことで少し」
眼鏡をかけた、たぶん男の人が言って、隣にいるたぶん女の人が微笑んだまま、うんうんというふうに頷いた。
ドアを開きかけると、ほとんど同時みたいにふたりはするんと玄関に上がり込んで、今度はふたり揃って、わたしの顔を見て、うんうん、と頷いた。
ふたりはインターフォンの画面越しで見るよりうんと小さくて、わたしの胸くらいまでしかなく、それぞれ赤い服と黄色い服を来ていた。顔を見なかったら子どもだと思ったかもしれない。ふたりの顔は60歳くらいに見えた。
「とうきょうを連れていかなくてはならなくて」
にこにこしながら、たぶん男の赤色が言って、
「そういう時期なんですよ」
とたぶん女の黄色が言った。
「あの、とうきょうはたくさん飲んだんです。なんていうか、みんな。みんなです。なので、」
わたしが言いかけると、黄色が遮るように、
「それも含めての、あれですから」
と申し訳なさそうに言った。
「とうきょう」
赤色が呼ぶと、玄関にお尻(つまり頭の反対側)を向けるように収まっていたとうきょうは、ずるずると大きすぎるからだを引きずって、方向を変えた。
とうきょうは部屋の出口よりはるかに大きくなってしまったので、出るのに難儀したけれど、とうきょうの柔らかなからだは出口に合わせて形を変えて、ゆっくり少しずつ廊下へ這い出した。
小さな赤と黄色が、ときどき、とうきょうの両側からとうきょうをぎゅっと潰して、とうきょうが外へ出るのを手伝っていた。
わたしはアパートの廊下の隅で、ただそれを見ていた。
子どもの頃にテレビで見た、牛の出産みたいだ、と思った。
とうきょうのお尻がずるんと玄関から飛び出したとき、赤と黄色は勢いよく尻もちをついた。「やあ」と黄色が驚いたように言って、「ほう」と赤が安堵したように言った。
「それでは、お世話をかけまして」
黄色がとても丁寧なお辞儀をして、赤もそれに倣うようにお辞儀をした。
ふたりはくるりと、とうきょうはもたもたと踵を返して、狭い廊下を進んでいく。
「待ってください。とうきょうは、わたしを飲まないんです」
そう言うと、赤が振り返って、
「それも含めての、あれですから」
とにっこり笑って言った。
とうきょうは不器用にからだをよじらせながら、狭い廊下をずるずると這っていった。
赤と黄色はとうきょうの障害物になりそうなものをせっせとどかしていた。
よそのお宅の宅配ボックスとか、小さな子供用の自転車とかを、どかしては元に戻していた。
*
とうきょうがいなくなった部屋は、ただの空っぽだった。
今にもがらんと音がなりそうなくらい。
窓の外を見ると、赤と黄色が揃ってとうきょうの上にまたがっていた。
とうきょうは自転車や自販機にぶつかりながら、通りを進んでいく。
とうきょうの後姿はどんどん小さな丸になって、そのうち見えなくなってしまった。
みんなどこへ行ってしまったんだろう。
とうきょうはどこへ行ってしまったんだろう。
わたしはどこへ行くんだろう。
早くわたしを飲んでよ、とうきょう。
了
同人誌「東京嫌い」収録作品(2020年)