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お風呂の蓋ってなんなのさ

この季節になると、お風呂の蓋のことばかりを考える。
新築のときにしつらえたお風呂には当然、お風呂の蓋がついていて、まっさらだったそれは9年の時を経て今、すっかり黒ずんでいる。
そういうものだし、そういうものなのだけど、何事においても汚いよりはきれいがいいし、我が家には年中通して来客が多いので、汚れが加速する梅雨時期は気になってしょうがない。

そもそもの始まりは、数年前に近所の子どもが泊まりに来たときだった。
客人のひとりが我が家の薄く黒ずんだ風呂蓋に視線を寄せて、
「うちはママがちゃんとお掃除してくれてるからきれいだよ」
と言ったのだった。
忌憚ないことこの上ない。
全然いい。素直でとてもいい。
私はとりあえずへらへら笑って、その場をやり過ごし、彼らが帰った後、風呂蓋にカビ取り剤を吹き付けたのだった。
でもあの、お風呂のふたの淵部のゴムみたいになってるところのカビがどうしても取れない。
表面はそれなりにすっきりとしたけれど、淵部がどうしても取れない。けれども、とりあえずの及第点として、目をつむることにした。

*

それからまた1年ほど経って、気がつけばお風呂の蓋はまたうっすらと黒ずんでいた。
気が向いたときにお風呂用の洗剤で洗うようにはしていたけれど、やはり梅雨入りから夏にかけて、加速して汚れが目立つ。
あろうことか、猫の肉球痕まである。お風呂の蓋に肉球痕とは大変かわいいけれど、やはりこれだって汚れなのだ。
猫を飼うまで知らなかった。猫の足跡がお風呂の蓋の上では汚れとして浮かび上がって、しかも取れなくなるなんてこと。
うちのクロちゃんはとてもかわいい猫で、私がお風呂に入っていると、覗きに来る。そして、私はお風呂の蓋を半分だけ外さずに風呂に乗せたまま入浴するので、その置いてある蓋にクロちゃんはお座りなさる。
とてもかわいい。
ちなみに、なぜ、お風呂の蓋を半分乗せたまま入浴するのかと言うと、十代の頃にあれは確かSPEEDの今井絵理子が「こんなふうにして半身浴をしているんですよ」、と歌番組で話していたからだ。あの時に得た信頼をゆるく引きずって生きている。

そんなふうに、肉球痕やら、黒カビやらを蓄えた風呂蓋に嫌気がさして、「ええい、もういっそ新調してしまえ」と設備屋の姉に品番を伝えて購入を検討したのだけど、思いのほか高かった。確か3万円ほどだったと思う。
そこで姉が提案したのは、お掃除サービスだった。
クリーニング業者に依頼して、お風呂の丸洗いをしてもらえば浴室丸ごときれいになるし、どうせ数万出すならその方がいいのでは、とのことだった。
持つべきものは設備屋の姉だ。

*

屈強そうな体つきのとても爽やかな青年がふたりいらっしゃって、お風呂とついでにエアコンの清掃をしてくれることになった。
エアコンからはドバドバと汚水が吐き出され、お兄さんは「ほらこんなに」と見せてくれて、私は子どもみたいにはしゃいでいた。
お風呂場では後輩と思われる青年が黙々とお掃除をしていて、期待が高まる。
エアコンから吐き出される汚水と同じくらいの汚れが風呂場の排水にも流れているに違いない。
すっきりと丸洗いされた美しいお風呂までカウントダウンが始まっているよ。

結論から言うと、お風呂はとてもきれいになった。
エアコンだって言わずもがな。
まるで新築のあの頃のよう。
ただ、お風呂の蓋だけは、お風呂の蓋だけは、見事に変わらない姿でそこにあった。そこにあったのは、私が毎日見ている、お馴染みのあの黒ずんだ風呂蓋だった。彼だけが、時空をまたがず生還した。

「このような感じで」

仕事を終えた青年はきれいに拭きあげられた浴室を見せてくれた。
私は感謝を述べながら、「あの、でも、このお風呂の蓋は……」と風呂蓋に寄り添うと、青年は

「そちらはプラン外なんです」

とおっしゃった。

そんな馬鹿な、と思いながら

「そうですよね」

とへらへらして、また彼らに「ありがとうございました」とお礼を言った。
浴室も、エアコンだってきれいになったのだから、決して高い買い物ではなかったはずなのだ。
後悔なんてしていない。

でも風呂蓋は汚い。
それだけだ。

*

もう他人をあてにできないので、いよいよ真面目にお風呂の蓋を掃除することにした。
カビ取り剤をシュッと吹き付けて、少しこすって、サランラップで覆った。
今までの私は、カビ取り剤を吹き付けるだけしか能がなかったので、こすったことも、ましてラップをかぶせたことも大きな進歩だと思う。
頼れるのは自分だけだと悟ったとき、人は少しだけ強くなるのだ。
これは私が10年ほどの子育てで得た真理と言っていい。
少しだけ強くなった私は、真面目にカビ取り剤を塗りこんで、真面目に擦った。

するとどうでしょう。
肉球跡もきれいに消えて、新品とは言わないけれど、とてもきれいな風呂蓋がそこに、ほら。
お風呂の蓋がきれいで、私が立派で、とても嬉しかった。

*

とは言え、暮らしていれば、汚れはまた溜まっていくもので、やっぱりこの季節になるとまた風呂場のあちこちが黒ずんでくる。お風呂の蓋だって言わずもがな。
毎日、日替わりで、床を磨いたり、椅子を磨いたり、カウンターを磨いたりしているのだけど、壁を磨く頃にはまた数日前にやっつけたコーナーの汚れが浮かび上がっている。一番面倒な風呂蓋は後回しにされて、また汚れが蓄積されていくという具合。

この季節になるとお風呂に入るたびに責められているような気持ちになる。
私だってそれなりに頑張って真面目に真人間の道を生きているつもりなのに、どうしてこんなに風呂蓋が汚れるのか。

あの忌憚のない彼女のママ、お掃除をちゃんとしているママが、途方もなく立派な人に思えてくる。

ちなみに、その立派なママは立派なので、雨上がりの日にはいつも外にお子さんの傘を干していて、私はそれを真似しようと張り切って子たちの傘を干したのだけど、風に吹かれて傘は飛んで行き、探し回ったところ、田んぼの側溝でファンシーな薄紫の傘が穴だらけで発見されて、なんだかいろいろと手が届かないナァ、なんて思ったりした。


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ハネサエ.
また読みにきてくれたらそれでもう。