みんなみんな、みんなの子
どこかの部族のむらでは、母乳が出る女性は自分が産んだ子でなくても、必要な時には乳を差し出すらしい。
それも、非常時だとかの特別なことではなく、日常的に行われるそうだ。
「ちょっと出掛けるわ」と、わが子をほかの女性にほいと渡して、受け取る方もはいよ、と何食わぬ顔で抱かえて、腹が減ったら乳をやる。むらのこどもだから、という理屈らしい。
私、これだいぶ感銘受けたのだけど。
これぞ、子育ての理想的最終形態に違いない、と確信した。
子どもは親の所有物ではない
これは虐待を良しとしない、という意味の文言として書かれていて目に止まったのだけど、この言葉に全てがつまっている気がする。
道行く子どもも、私の子どもも、幼稚園や保育園にいる子どもも、ほんとうは誰の子どもでもないのだ。
少し前に、親が子供を叱らないことが不快だとする意見がTwitterで流れていた。
それに対して、そんな四六時中叱ってられるか、という意見がぱらぱらと流れる。
と言うか、誰が叱ってもよくない?
(それが本当にいけないことだとしたら)
叱らない親だけがなんで責められるのか分からない。
ここには「むら」は無いんだな。
どこまでも、産んだ子は産んだ親が責任を背負い続けなければいけないらしい。
なんとも、閉鎖的だ。
いきなりだけど、夫の実家が三重県の海が近い田舎のまちにある。
彼が通っていた小学校が私の理解の範疇を大きく超えて素晴らしかった。
親戚の子どもたちが通っていたことからたびたび足を運んだのだけど、そこの自由でのびのびとしたすべてに驚いた。
まずもって、子どもたちがのびのび。
そして、親たちがのびのび。
先生たちものびのび。
親たちは誰の子とも関係なくみんなと等しく接するし、先生たちも規則に子どもたちを縛りつけることなく接していた。
姪は校長室にしょっちゅう遊びに行っていたらしい。それも窓から。
「今度はドアから入ってきてねっていっつも言われる」
そう言って屈託なく笑っていた。
運動会や文化祭や盆踊り、行事ごとの色々には保護者以外の地域のいろんな人も集まってきた。
みんなが顔見知りで、まるで大きな家族のようだった。
どの子も等しくみんなに大事にされていた。
彼らを見ていると、誰が誰の子が分からなくて混乱した程だった。その位みんなが家族のようだった。
一番上の子が産まれたとき、この子には私しかいないのだ、ということがどこまでも恐ろしかった。父親になりたての夫はまだまだ頼りなかったし、両家の実家は遠方だった。
周囲には友だちもおらず、今思うと孤独な子育てだった。
私だけがこの子を愛しているし、誰も私に等しくこの子を愛してはくれない、といつも思っていた。
だから、毎日100%の愛を注いでいくのだ、と信じ込んでいたし、私の言葉や行動のすべてがこの子をつくりあげていくんだからちゃんとしなくちゃ、とも思っていた。
そんな子育てをしていたから、くだんの小学校の有り様は希望を含んだ大きな衝撃だった。
いろんな人から寄せ集めた100%の方が、うんと素敵だ。その100%で世界を信じることができる気がする。
だから私は、相手にどう思われようと、誰の子も愛おしんで大切にしたいのだ。
日本中の親たちがさみしくないように、子どもたちが世界を楽しめるように、会ったことのないあなたのお子さんも、すごく大事ですごくかわいい、と大声で言うよ。
あなたの子どもは日本の宝だから、国宝だから、どこで泣いても、どこで癇癪起こしても、多少騒いだって全然構わない。国宝だから。
とやかくいう人がいても気にしなくて全然いい。だって国宝だから。
孤独な子育てがこの世から無くなりますように。
みんなの子どもが「みんなの子ども」でありますように。
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また読みにきてくれたらそれでもう。