#こどものいのちはこどものもの
昨夜、喉が痛いから早く寝よう、と思っていたけれどこのツイートが流れてきて眠れなくなってしまった。
日曜日、ちょっとしたご縁で児童虐待防止フォーラムというものに参加した。
サブタイトルは、~虐待を貧困から考える~。
虐待の因子の一つである貧困とどう向き合っていくか、といった内容だった。
貧困家庭は閉鎖環境に陥りやすいがために虐待につながりやすい(と解釈した)ということだったけれど、やはり閉鎖は魔だな、と思った。
たった7年足らずの子育てだけど、自分の中に虐待の影を見たことなんて数えきれないくらいある。
私の実家は遠方で、車で5時間くらいかかる。
夫の実家は県内だけれど、それでも車で1時間半ほどだ。
特に二人目が産まれてからしばらくは夫が多忙だったこともあり、なにかと孤独を感じやすかった気がする。
長女が幼稚園に入るまでは(入ってからもしばらくは)周囲に知り合いがほとんどおらず、困ったときに誰かを頼る、という経験をまったくと言っていいほどしない日々だった。
銀行も市役所も病院も歯医者も、すべて子どもと一緒だった。
誰か一人が高熱だったとしても、食べるものがなくなれば連れて買い物に行った。真っ赤な頬をした子どもを励ましながら連れ出す度になんだか泣きたいような気持になった。
私がどんな思いをしても誰も知る人はいないのだな、そう思うと自分の感情なんてどうでもいいような気がした。
何を思っても感じても、アウトプットする場所がないのなら、ないのと同じだった。
やることは次から次へと沸いてくる。自分の感情に構っている暇はない。
そんな暮らしをしていると、ふとタガが外れることが突然起きるのだ。
蓋をしていた感情がいきなり暴れだす。
昨日も一昨日も我慢できていたことが、突如我慢できなくて投げ出したくなるのだ。
大きな声で怒鳴ったこともある。
泣いたこともある。
「いい加減にしなさい!」と子どもを家から閉め出したことだってある。
トイレに籠ったことも、車に籠ったこともある。
批判を恐れずに書くなら、子どもの頬を張ったこともある。
自分は子育てが向いていない、とどこまでも落ち込んだ。
そしていつも、明日からきっとうまくやる、大丈夫だ、と自分に言い聞かせていた。
そんな毎日を誰かに助けてほしかったけれど、「明日はきっと大丈夫」な私が一体どこへ相談できただろう。
なにか深刻なことが起きた訳でもない私の相談はただの愚痴でしかないような気がしていた。
頭の中では何度も子どもを引きずり回してぼこぼこに殴って蹴っていた。
ぎりぎりの理性が実際にはそれをさせなかったけれど、私には間違いなく「虐待する親」だった時期がある。
虐待の痛ましいニュースを観るたびに目を背けたくなるほど苦しい。
幸せになるはずだった彼や彼女がどうしてこんな目にあって命を落とさなければならかったのか憤りとやるせなさで泣けてくる。
それと同時に、私と画面の中で連行される親は何も違わない、という思いにも駆られる。
私だって何か一つボタンを掛け違えていたらそっち側にいたかもしれない。
たまたま私は運がよかっただけなのだ。
それはスーパーでときどき会うおばあちゃんだったかもしれないし、支援センターのあの気のいい先生だったかもしれない。相性が悪いと思っていた小児科の先生の優しい一言だったかもしれないし、お散歩コースにいつもいたおじいちゃんがくれた採れたての野菜だったかもしれない。
そんな小さなひとつひとつのピースがぎりぎりの私を救っていたのだと思う。
三年前、今の町に引っ越して、子どもたちが幼稚園に通うようになって、少しずつ私にも人のつながりができ始めた。
公園に行ったり、一緒に夕飯を食べたりする友達もできた。
そうして、気が付けば私の中にあの「虐待する親」はいなくなっていた。
けれど喉元を過ぎたからと言って私はあの日々を忘れたくない。
今もどこかで自分の中にいる「虐待する親」と闘う人たちがいるのだ。
いつか子どもを殺してしまうんじゃないかと思う、そう吐露した温厚な男友達がいた。
感情がコントロールできない、と落ち込む女友達がいた。
子どもが後ろを向いた隙に、届かない蹴りを向けてしまう、とこぼした幼馴染がいた。
みんないろんなぎりぎりを生きている。
子どもたちは脳みそがとろけてしまうほどかわいいし、いつだって尊い。
それでも閉鎖という魔物が忍び寄った時、虐待の二文字は立体感を伴って、寄り添うように立っている。
私は誰かのピースになれるだろうか。
ぎりぎりの今日と、きっと大丈夫な明日の狭間にいる誰かに、私は何ができるだろう。
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私も微力ながら支援させていただきました。
すべての子どもとすべての親に幸せな夜が訪れますように。