あの日、息子の前歯が折れた
今年の2月、息子(当時4歳)の前歯が折れてしまった。
その日、私は終わらないバレンタインをようやく終えて、ストーブでおしりをあたためながら安堵と疲労でぼうっとしていた。
目の前では息子がひとりがけのソファ2脚のあいだにおさまって、ひじ掛けに手を乗せて、ちょうど体操の平行棒のように体を揺らして遊んでいた。
「ママー!!見て!!!」
うんうんすごいねぇ、でもソファで遊ぶと危ないよー、と曖昧に相槌を打つのだけれど、なんだかとっても眠い。
息子のダイナミックな動きはこの4年間で見飽きるほど見てきたし、確かにすごいけどこの程度ではさしたる驚きも感激もない。
バレンタインが終わらなかったばっかりにクッキーづくりで連日寝不足だったのだ。眠たくてもう。
ああ、すごいなぁ、と空っぽの返事をしながらふとスマホに目を落とした瞬間、息子の泣き声が聞こえた。
見るとソファとソファの間でつぶれたカエルみたいに息子が泣きながら伸びていた。
「ああ、もうだからいつもソファで遊ばないって言ってるでしょー」
と息子を起こしてやるとぎょっとするほど血まみれだった。
「ごべんなざーーーーい」
泣きながら謝る息子。
「ううん!!!!!むしろこっちがごめんね!!!!!!
なんか、ごめん!!!!こんなことになってると思わなくて!!!!!」
と言えたらよかったんだけど言語化することもできないくらいはっきりとパニックになってしまって、私、とりあえずティッシュをあらん限りの勢いで息子の口にあてがって、なんでか床を拭いた。
息子の口に引き続きティッシュをあてて、箱ティッシュを抱かえさせて、かかりつけの歯医者に電話をした。
名前と事情を話しただけで歯科医師と衛生士さんは合点してくれて、すぐに来るように言ってくれた。
長女と末っ子もろとも車に詰め込んで、歯医者へ。
息子はさぞかし痛いだろうに泣きもせず、ちゃんとティッシュ箱を膝にのせておとなしく運ばれていた。
*
歯医者につくと、顔見知りの衛生士さんが飛び出してきてくれて、かわいそうに、とか、痛かったよなぁ、とか息子を慰めてくれた。
続いて先生がいらして、待合室のおばちゃんたちに「すんませんが、先に見させてもらいたいんやわ。申し訳ない」と説明してくれた。
おばちゃんたちも顔面が血まみれの息子を見て、「ええよ、ええよ」と快く順番を譲ってくれた。
ちゃんと診察台にごろんして、口を開け、レントゲンを撮り、うがいをして、息子はとってもおりこうさんだった。
血が拭われた後、唇は眼を背けたくなるほど腫れていた。
レントゲンの結果、息子の前歯は歯根からぽっきり折れていた。
ショックだった。
乳歯とは言え、息子の健康な前歯が失われるのはかなしかった。
永久歯が生えるまであとどれくらいあるのだろう。
その間息子はおせんべいやエビフライや、ハンバーガーをいったいどうやって食べるんだろうか。
先生のお話では歯はかなりぐらついているし、2~3週間でポロリと落ちるケースが多いとのこと。つまり乳歯の前歯に関しては諦めなくてはならないということだった。
いったん唇の消毒をして、その日の診察はおしまい。
待合室に戻ると、おばちゃんたちが唇がえぐれ、顎に血が残る息子を見て「かわいそうやったねぇ」と言った。
「お待たせしてしまってすみませんでした」
と謝ってお礼を言って、ええよええよと言われたあと、おばちゃんのうちのひとりがどんな脈絡なのか息子を指して「靴下履かせなあかんよ」と言った。「えっと、すいませんあわてていて…」と言いよどむとおばちゃんは厳しい顔で「持ってこな」と言った。
文脈完全に無視しているのは承知なのだけど、永遠に心に刻まれそうな出来事だったので前歯の件とセットで書かせて。
これが世に言う「靴下おばさんなんだなぁ」と感慨さえあった。
UMAを目撃した気分だった。
*
翌日、幼稚園で事情を話すと、しばらくのあいだ給食は小さく刻んでもらえることになった。
「唇の腫れもひどい上に、歯も折れているので、食べるのも遅いかと思いますし、量も食べきれないかもしれません」と先生にお伝えしておいた。
が、お迎えに行ったら、
「食べるのめっちゃ早やかったし完食しました」と先生は驚きを隠せない様子で話していた。
その翌日には三食団子がデザートで出たのだけど、それも先生が切ってやる前に器用に食べていたとのことだった。
たくましい。
そう、息子はたくましいのだ。
振り返ると、彼が「痛い」と本気で言っているところを見たことがほとんどない。花火で火傷(こじれて通院になってしまったほど)したときも、予防接種のときも、採血のときでさえ、いつも眉ひとつ動かさず真顔で「痛い」と言うだけだ。
けれど今回ほど息子のたくましさを目の当たりにしたことはなかった。
「痛くないの?」と訊くとやはり真顔で「痛い」と言うだけで、ごはんも旺盛に食べるし、ごきげんもいたって普通もしくはよかった。
唇は大きく腫れていたし、前歯は歯磨きをしてやるたびにぐらついて私や夫の胸はとても痛んだけれど、本人はいたってクールで冷静だった。
*
そこから2週間ほどしたある日、いつもの仕上げ磨きの時に息子の前歯がぐらつかないことに気がついた。
前歯が折れて以降、歯列からぴょこっと折れた歯がはみ出していたのだけど、その歯がきちんと歯列におさまっていたのだ。
あれ?これはいったい。
「ねぇ、歯、今もぐらぐらする?」
と訊ねると
「少しはする」
少しは……??????
「前よりはしないの??」
「うん。ぎゅって入れたから」
ギュッテイレタ……ギュッテ…ギュッテ……???
まったく理解ができなくて息子にどういうことか訊ねると、両手の親指を前歯にあてて、歯を歯茎に向かって押し込む真似をした。
「こうしたの!」
真剣な顔だった。
「そしたらぐらぐらしなくなったの???」
そんなことって、
「うん」
あった。
それから数日して、歯医者に長女の定期検診察に行ったらついでに息子の前歯も診せてほしいということだったので息子も診察してもらった。
前歯を触って先生も衛生士さんも目を見開いていた。
誇張ではなくみんなはっきりと絶句した。
そして、スタッフのひとりが「狐につままれたようだ」とこれまた日常生活ではあんまり聞かない種類の慣用句を口にした。
レントゲンを至急とったらやはり歯根は折れてはいたのだけど、なぜぐらつかなくなったのかは誰にも分からないらしかった。
先生は、「何かがうまい具合におさまったんだろうねぇ……」とふんわりしたことを呟いて、「結果オーライとしましょう」と少し歯切れの悪い言い方で言った。
みんな口々に「痛かったと思うんだけど」「相当痛いはず」「折れた歯を押すなんて」と囁き合っていた。
息子の言い分は、「(ぐらぐらして)邪魔だったから」だそうだ。
あれからもうすぐ4か月が経つけれど、息子の前歯はぐらつくこともなく歯列の中にお行儀よくおさまっており、おせんべいもハンバーガーも食べられているし、プリンを開けるときには積極的に前歯を使っている(やめなさいって言ってるんだけど)。
なんだかよく分からないけれど今のところ結果オーライみたい。
よかった。