「転んでもすぐに立ち上がったらちょっと躓いただけに見える」考察


今回は、我が師匠、『饐えた飯』様の考察を書かせていただこうと思う。(上記の記事を未読の方は必ず読んでから下にスクロールしてほしい。)

考察を書かせていただくにあたって、二番煎じにも関わらず快く応援してくださった🤡様、そしてこんなに考察し応え抜群の妙々たる名文をこの世に生み出してくださった師匠には、深く感謝と尊敬の意を示しつつ、至誠を尽くして書いていこうと思う。

※以下、ネタバレ注意

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◎はじめに
この作品は、転んだ際に転んだように見せないライフハックを痛快かつ鮮やかに描いた彼女自身の回顧録である。
全体を通して、うっせえわを歌うクリリン達や動きが大きい「私」が滑稽に書かれており、まるで実際に体験したかのような充実感がある。

しかし、この話にはいくつもの不可解な点が散りばめられていることがわかる。
その中でも、特に気になった以下3点について、深く考察していきたいと思う。

➀「私」に降りかかる災いと体中にできる傷
②「私」に迫り来るムーンウォークリリン
③「ぷりんちゃん」が言った“冬季うつ”とそれ以前の文章との関係

それでは1つずつ見ていこう。


◎本論
➀「私」に降りかかる災いと体中にできる傷

まず、こちらについての考察である。

“色々な場所にぶつかってアブラムシみたいな柄の傷を作ったり、肩に覚えのないゴミがついていて恥をかいたり、猫に逃げられたり”
“水の入ったバケツを吹き飛ばしたり、教室の机の列ををぶち壊したり”(2箇所引用)

という部分がある。
自分もドデカムーブメント界隈の一員なので、ふとした瞬間に人間の腹に腕をめり込ませてしまったり、真っ平らの廊下や体育館で盛大に躓いて巨大な擦り傷を作ってしまったこともある。

しかし、この部分には違和感を覚えた。

「肩に覚えのないゴミ」
「水の入ったバケツを吹き飛ばしたり」
「教室の机の列をぶち壊したり」 

これではまるで、「私」のもとに物がぶつかりに来ているようではないだろうか。

肩のゴミは、確実にゴミの方が肩に乗っているし、水の入った重いバケツが倒れることはあっても「吹き飛ば」すことが果たしてか弱い「私」にできるのだろうか。
さらに「机の列をぶち壊す」ことなど、並大抵の人間にできる技ではない。(机は1列に4~6つほど置かれるのが一般的である。)

つまり、「私」のドデカムーブメントのみが原因であると考えることは難しいのである。
では何故、このような災難が「私」のもとにばかり降りかかるのか。
 

それは、「私」に事故が引き寄せられてる、と考えるのが妥当ではないだろうか。



②「私」に迫り来るムーンウォークリリン

お次は、ムーンウォークリリンについてである。

“ずっと歌っているだけだったクリリンが、突然バグを起こした。なんと、すれ違うために少し右に避けた私目掛けて、無明逆流れみたいなポーズを取り、音速で迫ってきたのである。”(引用)

”そしてそのまま私は、クリリンとクラッシュした。”(引用)

の一節を読んでいただきたい。

ここでも、先程の考察と同じことが言えることにお気づきいただけただろうか。

「私」は歩くクリリンズを記憶に残るほど確実に直視していたのである。
それなのに「大クリリン」はぶつかってきた。
しかも後ろ歩きで。

ここはなかなかスルーしてしまいがちな部分であるが、一度脳内再生してみてほしい。
先程まで離れたところを後ろ向きで歩いていたクリリンが急にこちらに近づき、突撃してくるのである。


少し変ではないだろうか。


後ろ向きなのに狙ったように「私」にぶつかることなど、隕石が急に降ってくるようなものである。
となると考えられることは1つ。

大クリリンは「私」に吸い寄せられている。


このように仮定すれば、大クリリンが「私」にぶつかってきた理由付けが容易になるのである。

すなわち、「私」が不注意で大クリリンとぶつかったわけではなく、「私」そのものに物体が吸い寄せられているということなのだ。

こう考えれば、クソデカムーブメントだけでは説明がつかないほどの災難の説明がつく。
つまりこの考察は、限りなく真実に近いといえるだろう。


以上の内容から、「私」は地球の活動と同じで、重力がはたらいていると考えられる。
そう、「私」こそ、地球と同等の力、即ち俗に言う万有引力を得た者なのである。

そう考えると、全ての不可解な事象に説明がつく。
例として小クリリンではなく大クリリンのみがぶつかってきた理由を挙げると、質量の大きい大クリリンのほうがより重力の影響を受けやすく、さらに給食セットを2つも持っていたとしたらさらに引力がはたらき、大クリリンのほうが「私」と衝突しやすいことが言えるだろう。

そのように様々な要因が絡み合ってこの一連の事故が起こったと考えれば、全ての辻褄が合」うのである。

③「ぷりんちゃん」が言った“冬季うつ”と“それ以前の文章との関係

まず、この節から以前までの話とは話題がガラリと変わっている。
急に登場した少々口うるさい「ぷりんちゃん」と無邪気で謙虚な「私」が定期的にグリーティングしているという話題に移り変わっている。
ここには少々驚かれた読者もいるかもしれない。

しかし考えてみてほしい。
そのような話題を急に出す意図とはなんだろうか。

そして、こちらは「追記」等でも何でもなく、
「転んでもすぐに~」の題のまま、繋がれて散る話なのである。
そこで自分は、この節も「転んでもすぐに~」と関連している若しくは延長線上にあると考えた。
乱暴な説ではあるが、自分はこちらを推している。

その理由として一番大きなものは、急に口から発された“冬季うつ”の存在である。

今あなたの頭にはてなが浮かんだのもまあわかる。
自分も、初めはなんの話かわからなかった。
しかし、冬季うつの説明を「私」はこう言っている。

「精神がユラユラになり、失敗をズルズルと引きずり、グルグルと悩み続ける」(引用)

ほな精神的重力の均衡が保たれてないやないかい‼

おっと、ついついミルク○ーイが出てしまった…

そう。
“ユラユラ” “ズルズル” “グルグル” といった言葉はすべてその物質の平衡・均衡が保たれていないことを表す言葉。
つまり、x軸とy軸が垂直になっていない状態。
ぐにゃぐにゃの世界がそこにはあるのだ。

そしてそれが“冬季うつ”という形で精神にまで影響するとしたら、それは重大な問題である。

加えて「私」は地球同等の力を有し、無自覚で子供や物を引き寄せる最強のパワーの持ち主だ。

空間を歪ませ、世界の均衡をも歪ませる超能力のようなパワーをも無意識に発動してしまっている可能性は考えられないだろうか。

そしてそこまでの強い力、本人の精神まで蝕んでしまう可能性を指摘するのは容易である。


ここから考えられることは、「ぷりんちゃん」は「私」が持つ力を漠然と理解し、その己の強すぎる力によって精神を病んでしまうことを本人にばれないよう、“冬季うつ”という名を借りて示唆していた、という可能性である。


「私」はまだ自身の強さを知らない。
そして友人である「ぷりんちゃん」は極力自覚してほしくない。

そんな愛のすれ違いが、この唐突な「冬季うつ」という言葉に滲み出ていたのではないだろうか。

「私」は強いが同時に繊細なのだ。
己の力を知ってしまっては友人と合うことを気軽にクソデカムーブをかますこともできなくなってしまうだろう。
それほどまでに本当に優しくて、他人想いで、時に気にしすぎてきまう、心の綺麗なひとなのだ。


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ここまでの①~③の考察をまとめると
・「私」は万有引力の持ち主
・物を引き寄せてしまうことを“ドデカムーブ”だと思っている
・友人からとても慕われている

ということが言える。

そしてこのブログの題としては、「転んでもすぐに立ち上がれば躓いただけに見える」ということである。

今までの解説とこちらを(多少無理矢理だが)繋げると、人生は所詮他人から見た自分が恥ずかしいものだと感じなければそれで良いのである。

仮に転んでしまっても、引力で人や物を引っ張ってきてしまっても(それに本人が気づいていなくても)、恥ずかしいミスをしてしまっても、その後の対応でなんとかなるのだ。

要は相手に「こいつ転んだな」と思わせなければいいのである。

それがちょっと躓いただけ、落としたものを拾うため、頭上を飛んできた矢を避けるためなど、何でも良い。
相手に「転んだわけじゃないんだな」と思って貰えれば万々歳なのである。


ただ、自分の個人的な意見を述べさせていただくと、転んだと思われても良いのではないかと思う。
別にその人にまた会うわけでもないし、日常の光景の一部となってそのうち忘れ去られる。

更に言ってしまえば、仮に他人が転んだくらいで嘲笑う人がいたとして、その人だって絶対に転ぶことはある。それが今か今でないかというだけなのだ。

うまくいかなくてもすぐに前を向けばいい。
そこには転んだあなたを近くで見ている人よりもずっと前を向いた、あなたがいるはずだから。



~完~


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