人は論理よりも情理で動く―INTJの人付き合い失敗談―
私は論理で動く
私は友達が少ない。「え〜!いっぱいいそうなのに〜!」とよく言われるが、私の友達の定義が狭いわけでも、謙遜してるわけでもない。「いつめん」なんてのはあるはずもなく、友達から遊びのお誘いがくることも自分から誘うこともほとんどないと言えば、大体の人は納得する。
そんな私のMBTI診断の結果は建築家(INTJ)。そこにも「建築家は人付き合いにもどかしさを感じるので、人付き合い自体をやめてしまおうかと考えることもあります」などと書いてあった。人付き合い自体をやめてしまおうなんて、何もそこまでじゃない笑
もっとも、MBTI診断で、人の個性を知った気になる最近の風潮はあんまり好きじゃないけど(それも建築家らしいと言われてしまいそう)、自分の取説をもらったような気持ちも少なからずあって、ちょっと救われてもいる。
最初からちょっと話がそれたけど、別に友達少ない自慢が今回の記事の目的じゃない。人を動かすのは、正しさよりも、共感や怒りや信頼とかいう感情なのだということをここ数年で身をもって経験してから、人付き合いがずいぶん楽になった。それをもっと早くわかっていれば、私にももう少し友達がいたかもしれない、ただそれだけの話だ。
これから書くのは、私の失敗談。人付き合い、、厳密に言えば、人が打ち明けてくれた悩みに対する応答の失敗例である。
失敗1:仲介に入らなかった
ある組織でリーダーをしていたときのこと。
グループを組ませているメンバー同士(AさんとBさんとしよう)でうまく意思疎通ができていない事態が起きていた。コロナ禍で、すべての活動が基本的にオンライン上だということもあり、たいして関係性を深められないままでのプロジェクト進行だったので、互いに気を遣って言いたいことが言えていなかった。
そういう相談をAさんからされた。Aさんは、大学入学前からの仲で、私をただのリーダーとしてだけではなくて、友達としての信頼の上で相談してくれたはずだった。
私は、Aさんの問題認識を聞き取り、次にBさんにも同じようにAさんとの関係性やプロジェクト進行で不満に感じていることを聞いた。
そして、役割分担の認識に齟齬があること、AさんがBさんに何か依頼をしたときに、何をどこまでやってくるかが明確に共有できていないことが、ボトルネックになっていると判断した。
そこまではたぶん、よかった。
こともあろうに、私は「じゃあ、そこを2人で話し合うといいよ」とぶん投げてしまったのである。3人で話し合えばいいのに。
今思えば、本当にひどい話だが、その時の私は、過剰な業務量と他の人間関係のいざこざで疲弊していて、ご飯もまともに食べられない状態だった。
そうであれば、せっかく仲介が得意な子がいたんだから、その子に頼めばよかったのに、「2人ともいい大人なんだから、それくらい大丈夫でしょ」と思ってしまった。
それをきっかけに私はAさんの信用を失った。何度も謝ったが、業務上のやりとり以外でまともに口をきいてもらえることはなく、その組織での活動を終えた。今もほとんど絶交状態である。
失敗2:味方する相手を間違えた
同じ研究室の院生からの相談。Cさんと呼ぼう。
Cさんは、ある日のゼミの発表で、先生にこっぴどく叱られた。発表内容が不出来だったからじゃなくて、仕事とか家族のケアで発表資料を作る時間が十分にとれなかったなどの言い訳を言うのに10分も使ったからだった。
その日のゼミの後、「先生はいつも私に厳しい、どうしてあんなに先生は怒っていたのか」というメールが私宛に来た。
たしかに、先生が語気を強めたのはよくなかった。その場にいた私たちもいたたまれない気持ちになった。
でも、先生が怒っていた理由は、私としては理解できることだったし、運悪くというべきか、海外出張帰りでいつも以上に疲れている日だった。
私は、なんて返信をしたらいいのか困ってしまった。
結局、Cさんの返信に、こんなことを書いた――その日、先生はいつも以上に疲れていてCさんはたまたま本当に運が悪かったこと、先生の言い方はたしかにきつかったこと、でも先生は内容の不出来で怒ったりしないこと、言い訳したい気持ちはよくわかるが、予防線になるどころか逆鱗に触れるのでやめた方がいいこと。
Cさんからの返信はなかった。
それから、Cさんは、私に何も相談してこなくなってしまった。遠方のお住まいから大学に来るときも顔を見せてくれなくなった。
私は、叱られて落ち込んでいる人に、叱った人の味方につくようなことを言ってしまった。味方する相手を間違えたのである。
論理でも人の情理に寄り添える
さっきの例の他にも、いろんな失敗と小さい成功を積み重ねて、今の私は、とにかく会って話すことを意識している。できればご飯に行く。
文字や声の情報は、その人の状況をたぶん2割くらいしか教えてくれない。その人の性格や心理状態は、ノンバーバルな部分を見ないと判断できない。相手の感情に共感できなくても、その人をきちんと観察すれば、その人が今どんな感情なのか予測することはできる。
それに、ご飯に行くとか、そういう相談以外の目的がある行動をともにすれば、その時間、本題以外の話も出来て関係性が深まる。
ちょっと話が変わるけど、私の知っている人が、「死にたい」と言っていたら、私はきっと訳は聞かずにその人と何かする予定を立てる。私自身が、私が死ぬとその人の人生がひっくり返るほど悲しむ人がまだいるからという理由だけで生きているからだ。別に何か病んでいるとかそういうわけじゃない。ただ、思考と感情という面倒なものを備えた生き物でいることに疲れてしまった。人間はつくづく不合理な生き物だと思う。
今年度から博士課程に入ってきた留学生の子が、新年度のバタバタで疲れている様子だったので、気分転換のために、英語字幕のコナンの映画を一緒に観に行こうと誘った。日本に来て3年目、英語字幕がなく、観たい映画をたくさん逃してきた彼女は嬉しそうだった。私も誘ってよかったと思った。
本当は、誘っている私の方が、誰かから必要とされたいだけなのかもしれない。