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非生産的な時間は生活も研究も豊かにする

数日前、久しぶりに大学生みたいな飲み会をした。
3時間の飲み放題コースでおなかをたぷたぷにして、その後3時までカラオケで歌いまくった。遊び疲れた頭と身体の感覚がなんだか懐かしくて、あたたかい気持ちになった。

大学院の、しかも博士課程まで来てしまうと、こうやってアホみたいに遊べる友達の数はどんどん減っていく。地元の友達とはSNSでつながっているだけで、自分からも相手からも連絡することはほとんどない。Instagramのストーリーで中学校の同級生の結婚を知り、その子たちの子どもの成長を見守りながら、でも自分が結婚式に呼ばれることはない。自分が独身である事実を突きつけられることよりも、そういうライフイベントを直接共有して、ともに喜べるような関係の友達が片手で数えられるくらいしかいないことにふと寂しくなったりもする。

いつも、頭の中は、ほとんど次食べるご飯のことか、研究のこと。練習時間がものを言うスポーツの世界で成功体験を得てきた私は、同じ論理で研究のことを考えてる時間が長ければ、それだけ生産性も正比例すると思ってたけど、全然そんなことない。うまくいかない時は、同じこと考え続けたって脳みそが機能してくれない。だから、趣味がある人って強いんだなと思う。自分もそうなりたいと思っていろいろ試したけど、どれも大して続かなくて、結局、寝る前にYouTubeを観てみたり、漫画を読んでみたり、そういう必要悪みたいな時間を浪費してばっかり。こういうの、リベンジ夜更かしって言うらしい。

そういう日常の中に、この前の夜みたいに、嫌なことを全部忘れてその瞬間をただ楽しむ時間があることは、本当に救われる。
同じ専門の院生で集まった会だったけど、だれも研究の話なんかしないで、ただ好きなタイプがどうとか、しょうもない話ばっかりだった。それがよかった。

教育学では、経済的不平等が、学力・学歴主義を介して、人生の不平等と結びついていることをどう乗り越えるか、というのが主要トピックのひとつだ。私の研究も、この問いに関わっている。
私は、楽しかった時間の余韻に浸りながら、ある本の一節を思い出した。

現在の日本で階層や階級をつくりだしているものは、(中略)話のあう人間と仲間になりたい、近親者と世界を共有したい、という私たちの日常的な思いなのである。

佐藤俊樹・石原英樹(2000)「市民社会の未来と階層階級の現在」高坂健次編『日本の階層システム6 階層社会から新しい市民社会へ』東京大学出版

人々は、生まれた家庭によって、子どもが受けられる教育に格差が生じ、それがその後の人生も左右することを問題だと言う。私もそれに異論はない。
でも、教育の、人生の不平等は、「私たちの日常的な思い」まで否定して乗り越えなきゃいけないんだろうか?
そういう日常的な思いを大事にする人たちに、「ぬるま湯に浸かっているからいつまでも貧しいんだ」と言う人もいるかもしれない。でも、友だちや家族と楽しい時間を過ごせて、その時間を大事にしたいなら、それもまたいいじゃないか。人生で何を大事にしたいかなんて、そんなの自由だ。

私は、数日前のあの時間が楽しかった。漫画『セトウツミ』の放課後みたいな時間を久しぶりに過ごした。
ああいう時間は、研究の進捗を生み出してくれるわけじゃない。何かひとつ賢くなれたりするわけでもない。でも、頭を空っぽにしてくれて、生活を豊かにしてくれる。
生活が豊かになると、他の誰かが過ごしている時間をちょっと共有できた気がして、自分の研究を誰に届けたいのか、そのビジョンが少し具体的になる。あの夜、眠らない街をうろつきながら、「こういう街で働いたり遊んだりする若者がいてもいい。でも、抜け出したくなったら抜け出せる回路を作りたい。」とこっそり思った。
今度は、あの夜行きそびれたシーシャのお店に行こう。

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博士のたまご
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