苦労した過程を褒められないことがつらい話
はじめまして、博士のたまごです。
博士号取得を目指して日々研究をしている学生(27)です。
どこの世界も同じかもしれないけど、研究の世界は、何本論文書いたかがいつも問われる競争社会で、私みたいな遅筆家にとっては、結構つらい世界だなあと思う。
そうは言っても、研究者として食べていきたいと思って大学院にいるんだから、成果主義に文句をつけて、筆の遅さを棚にあげていては自滅してしまう。だから、パソコンを開き、ワードファイルを開き、文章を書き起こすことへの心理的ハードルを下げようと、まずは自由に書き散らせるnoteをやってみることにした。
記念すべき初回の投稿は、「苦労した過程を褒められないことがつらい話」。
大学3年生くらいの時、指導教員に研究者の仕事ってどんな感じですか?と聞いてみたことがあった。
先生は、「闇にボールを投げ込んでいる感じ」と言った。
どんなに一生懸命ボールを投げても何も反応がない。落ちた音が返ってくるわけでもない。今の投球がよかったのか、悪かったのか、手ごたえがない。先生はそういう風に答えた。その後に、「でも、こういうところでやりがいを感じる」っていう話もしてくれたような気がするけど、「闇にボールを投げ込んでいる感じ」の衝撃で何も覚えていない。
そして、博士課程の学生になった今、先生の言っていたことが少し違うかたちでわかるようになってきた。
毎日、研究室に来て、論文を読んで、引用とか頭の中を整理するメモを書きなぐって、学会の口頭発表や論文の投稿を目指して少しずつ積み上げる。でも、それがうまくいっているのか道中ではさっぱりわからない。ものすごく遠回りしているような気持ちになることもある。
そして、ようやく書き上げたゼミの発表資料や、口頭発表の原稿や、投稿する論文は、15分とか20分で消化され、あれこれ言われる。誰も「ここまでよく書いたね」なんて言ってくれない。
先生が言っていた「闇にボールを投げ込んでいる感じ」は、きっとこういう意味じゃないと思う。書いたものにいろいろ言ってもらえて、そこには確かに反応があるんだから、水にポチャンって落ちた音くらいはしているようなものだから。でも、投げる苦労は、当たり前にされちゃっている。
褒められることがないわけじゃない。例えば、投稿した論文が採択されたとか、口頭発表で賞をもらったとか、たまーにだけど、そういうかたちで認めてもらえることはある。
でも、それは、あくまで結果・成果に対する評価であって、その過程の頑張りは、結果とか成果に吸収されてしまっている。欲しいのは「頑張ってよかったね」とか「努力が実を結んでよかったね」じゃない。「実を結ぶかどうかわからない中で頑張っていること」に対する承認なのだ。
そうすると、日々コツコツ頑張っても、褒められたものじゃない成果物しかできあがらなかったとき、もう頑張りたくなくなってしまう。「頑張ったってどうせ」という思考が大きくなっていってしまう。
もしかしたら、そんな甘ったれたこと言うやつに研究者になる資格も適性もないって言われてしまうかもしれないけど、たまには幼児退行も温かく見守ってほしい(笑)しろやぎさんも「大人だから我慢している事」を描いているんだし、きっとこの気持ちをわかってくれる人は少なくないはず。
そして、差し当たりの私の戦略は、作業ひとつひとつを小さくしてスモールハードルをちょっとずつ乗り越えること。「研究やだな~」とか思っちゃうより先に、椅子に座り、本を開き、パソコンを開き、何か読み始めたり書き始めたりしてみること。言葉より先に走ってしまう私自身の思考を飼いならすために、noteを書いてみることも戦略のひとつ。
私が読んできた論文を書いた研究者たちも、きっと同じような苦労をしてきたんだと思う。論文を読むとき、手っ取り早く自分に都合がいい記述を探したり、粗探しをしたりしてしまうことがある。でも、本当は、温かいコーヒーを淹れて、椅子に深く座って、ゆっくり時間をかけて読む方がいいに決まっている。その研究の意義と限界をちゃんと見極めて、正しく乗り越えることが、書いた人が頑張った過程に対する最大の敬意だと思うから。
私もそうやって味わい深く読んでもらえる論文を書ける研究者になろう。
※前に同じ記事を読んでくださった方へ
このnoteの方向性がようやく固まってきて、初稿の記事をかなり書き換えております。ご了承ください。