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The Blame Game

"How dare you" a girl said. But who really are the Bad guys here? 

「よくもそんな真似を」と漏らした環境活動家グレタさんの言葉とそれがもたらしたムーブメントが始まって早一年。少女が漏らした言葉がニュースで取り上げられる中、それを見ながら複雑な気持ちではいられない。私を複雑な思いにさせる原因こそ彼女の向ける怒りの矛先の不明確さにあるように思う。彼女の怒りの矛先が環境破壊をもたらす大企業や国家である一方。その国家や企業を形成しているのも消費者である私自身である。グレタさん自身がそれを理解したうえでの行動を起こしているかはさておき、グレタさんを崇拝する若者は段ボールで作られたプラカードを手に、毎週金曜日にデモを行う。

話題になった”#Me too”運動にも同じわだかまりをいだいてしまう。圧倒的に女性が性被害にあいやすい社会構造を理解しないまま、女性に責任を問うべきではないが、女性の性被害=男性の問題としたままではこの社会はなんら改善を見せないのではないだろうか。この複雑な社会問題の背景には「社会の無関心」がある一方それは社会の「他人ごと化="blame game"」にもあると考えられる。

人間の心理からして自分自身が解決できない大きな問題に対して誰かに責任の所在を求めてしまうのは最もだ。しかしその一方、自分ごととしてとらえず「誰かが解決する問題」とし、責任を押し付けたままでは一行に問題解決には至らない。

では、一方的な「自己責任」をせずに「自分ごと化」するにはどうすればよいのだろうか。筆者が考えるには以下の三つの方法があげられる。

①細分化

どんな複雑な問題も細分化することで解決の糸口をつかむことができる。細分化といってもただ「単純化」するのではなく、問題を小さくしていくことで問題に潜む本質を知ることができるだろう。

②構造化

問題の構造化は多くの組織が行っている反面、非常に難しい手法でもある。構造化をするのは問題を多面的にとらえる力とそれをシステマティックに理解する力が必要であるからだ。

③実行する

いかに問題を自分ごとにしていくかはやはり行動力を持つことに他ならない。たとえそれがどんなに小さな行動であっても行動することから輪が広がっていく。その意味で言えばグレタさんの行動もやはり大きな一歩と言えるだろう。その一方で自分自身の行動が「問題を移行すること」になっていないか、「自分の役割は果たさないまま」ではないか等を自問自答していくことも必要なプロセスだと思う。実際、ムーブメントを始めたグレタさんはベーガンを貫き、飛行機も今後一切使わないという、いわゆる「堕落した資本主義の否定」を行うことで自分の役割を果たそうとしている。

社会は均衡によって保たれている。一方に偏りすぎるとうまくいかない反面、そのもう片方に極度によることもまた新たな問題の発端となり得る。お互いが均衡を保ち、ベストでなくてもベターな社会を築いていくためにも鎮撫なBlame gameを終わらせなくてはならない。







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