ひまそらあかね の公約を政治学の観点から読む ①公金チューチューなくす
私は、一応行政に関する仕事をしており、一応大学で政治学の研究員もやっています。
東京都知事選候補者のひまそらあかねさんのことは、東京都若年被害女性等支援事業(いわゆるWBPC問題)からずっと注目してみていました。
口は悪いし、いつも誰かと戦っていて友達にはなりたくない人だとは思いますが、彼の戦いは政治学・行政学の観点からも非常に意義の大きいものだと思って、陰ながら応援していました。
政治学・行政学の末席を汚しまくっている者ですが、ひまそらさんの政策が政治学的にどんな価値があるのか、説明してみたいと思います。
公金チューチューを政治学の言葉で言うと
公金を支払うことは、社会の中で広く行われています。社会保障や給付金など個人に行くもの、公共事業などで企業にいくものなど様々です。
公金を支払うこと自体は、必ずしも悪いことではありません。
では、なぜ「公金チューチュー」が問題かというと、間違った方法で公金が流れているからなのです。
間違っているというのは、何が基準なのでしょうか?
よい政策をつくるにはこの3つの条件が必要です。
このどれかが欠けてお金が支払われると間違った方法と言えるでしょう。
ひまそらさんが戦っている公金チューチュー
ひまそらさんがずっと戦ってきた東京都若年被害女性等支援事業(いわゆるWBPC問題)は、いろいろな困難がある若い女の子たちを助けようという事業です。こういう問題に取り組むことに反対をする人はあまりいないと思います(弱い立場の男性も支援しろという声もありますが、女性支援はダメで男性だけやれという人はいないと思います)。そういう意味では、目的の正当性はあると言えるでしょう。
ところが、この事業は手段の正当性に問題がありました。
受託した団体は、歌舞伎町で食料品や避妊具を配ったり、ビラを8000枚配って声を挙げられない女の子に8000人リーチしましたと言ったり、保護した女の子を沖縄の基地の座り込みにつれていくなど、本当に困っている女の子の状況を改善しているの?という目的に対して実効性が疑われることがたくさん起きていました。
そして、一番みんながおかしいと思ったのは手続きの正当性です。
東京都はこういう事業の実効性を問題にせずに、報告を素通ししました。しかも、会計の数字が合わないし、事業に関係なさそうな領収書が混ざっていたり、領収書がそもそもなかったりしたのです。
おかしいと思ったひまそらさんは、住民監査請求という、きちんとした手続きでやったか調べてくださいというお願いをしました。これは1つの団体に対しては通りましたが、他の団体の分は却下されました。通った1団体も、ざっくり言うと誤記とかあったけど不正はないという結論でした。
行政には情報開示請求といって、住民に求められたら公文書を見せる仕組みがあります。小池都知事は、この開示で黒塗りは止めますと公約で言っていたのに、この途中で公約を削除して、ひまそらさんがこの団体の情報を調べようとしてもほとんど黒塗りの文書を出すようになりました。
お金をもらって事業をしている団体が適切ではないかもしれない手続きを行っており、それを東京都がかばうという構図があったこと、これが公金チューチューです。
ひまそらさんは今、東京都が公金チューチューを許していると疑って、東京都を訴える住民訴訟を行っています。
公金チューチューがなぜ悪い
政策において目的、手段、手続きの全部が大切ですが、中でも一番大切なのは手続きです。
例えば、目的は議会を通じて民意に基づいて判断されますが、民意も必ずしも正しいとは限りません。戦争に賛成する民意もありますし、かつての時代は今では差別と思われる法律も普通に通っていました。
手段に関しても必ずしも正しい手段が取れるとは限りません。多くの社会課題は、現在ある方法で解決できないのだから社会課題として残っています。まだ正解の手段がわからないものが多いのです。民間企業でも試行錯誤しながら売れる商品を考えて失敗もするのですから、政策だって必ず狙った目的を達成できるとは限りません。もちろん、振り返りをきちんとして改善することは大切です。
その中で手続だけは、客観的に立証できて、目的や手段を間違えたときに大きな被害を出さないようにするストッパーになるのです。政策目的に誰かの権利を侵害するということが入ってしまうことを防ぐために、憲法や様々な法律がそれを止めます。
効率的だけれど社会に共感されないような手段を取れないように、役所の発注では仕様書があったり、関係ないものにお金が使われないように支出のチェックが行われます。手段が適切だったかどうかには事後評価もあります。
この手続きというストッパーを壊したら、いくらでも自分勝手なことができるようになってしまい、うまく行政に圧力をかければ、いくらでも公金チューチューをすることができるのです。そうすると、行政のもつ力やお金が皆のためではなく、声の大きい一部の人だけのために使われるようになるのです。
憲法と法の支配
日本では、法の支配を大切にしてきました。同じような言葉に法治主義というものがあります。
法治主義は、法律に従って国を統治することです。それに対して法の支配は、権力者の権力も法で制限を受けるという考え方です。法の支配のない法治主義は、権力を持つ人たちだけが法律を守らなくてもよいという社会になります。
そんな社会では、企業や個人が努力をして、誰かを喜ばせたり困り事を解決してお金をもらうよりも、強い人たちと仲良くするほうが儲かるようになり、経済の活力も失われていきます。
明治時代に日本は西洋から憲法を学んで立憲主義(国のルールは全部憲法に基づく)を導入しました。最初は不完全なものでしたが、当時の政権からしたら権力を制限されるようなことをわざわざしたのです。
それは、国を強くするためでした。ルールがあって誰でも法の下で平等な社会は、経済の発展にも個人の幸せにも不可欠な土台です。それがあるから社会が発展するのです。残念ながら、そこで強くなった国力でかつての日本は戦争に向かいましたが、法の支配は戦争を放棄した現代にとっても重要な社会の基盤です。
現在の日本国憲法12条にはこう書いてあります。
自由も権利も永久不変にあり続けるものではありません。人類が多くの血を流してようやく獲得できたものです。誰もが自分がいい思いをしたいという気持ちを持っており、力を持てば他人の自由や権利をないがしろにしていいと思う人達が出てくる中で、今あることが奇跡のようなものです。
憲法12条は、これを守るのは「国民の不断の努力」と言っています。行政や権力者ではありません。
「公金チューチューをなくす」というのは、行政の不正をなくすというだけではなく、わたしたちの社会の根幹である、自由と権利を守るということを意味している公約だと思います。
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