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本当にやりたいこと


物や人で溢れかえっている東京。
便利すぎる暮らし。
定職もあり休日もそこそこ多いし、
同年代に比べたらお金だってあった。
職場環境や周囲の人にも恵まれて
何も不自由はなかった。

東京の病院から離島へ転職を決めたとき、
「どうして辞めちゃうの?
ここに居た方が絶対に良いのに」
同僚にそんなことを言われた。
その考えも一理ある。
彼らに仕事を続けている理由を聞くと
「同年代が一緒に働いているから」
「新しい環境に行くのが面倒だから」
というものがほとんどだった。

誰かがいるから続けたいこと、
慣れ親しんだ結果離れられない環境。
果たしてそれらは保証されたものなのか?
もちろん人は慣れや依存を求めているし、
私もそうだと思う。
だけどそんな不確かなものに依存していては、
本当に自分がするべき選択や
したいことの判断が鈍ってしまう気がした。

依存したその物や人は、
本当に大切にするべきものなんですか?


物が溢れていると判断が鈍る。

例え話をすると、私のタンスには
「好んでは着たくない服」がたくさんあった。

"あの場所へ行くには
この服を着ていかなければいけない"
"あの人に会うにはいつもの服ではいけない"

みたいな、
自分の中で勝手に決めた「ルール」だ。
好きな服だけがタンスにあれば
私はそれを選べたのかもしれないが、
私は自分が勝手に決めた
「ルール」を破ることができなかった。

その結果「好きな服を着ない自分」が嫌になった。人からの視線を気にするあまり、自分の好きな服すらも着ることのできないちっぽけな自分が。自分が思うほど、人は自分のことを気にしていないのに。

だけど、私はそこまで弱っちい人間ではない。
意見は言える方だし、
自分の考えだって持っている。
ある時、自分のことを誰も知らない土地へ
行ったときの解放感に気がついた。
そこでは人からの視線も気にならないし、
私はもとからこういう人間ですけど?
と、声はあげずとも強くいられる気がした。

私が勝手に自分を苦しめているものは
実は慣れ親しんだこの環境なのではないか?


そう思った。
私は自分のために環境を変えよう。
自分が強く在れる場所へ行こう。
だから私は全てを捨てる決意をにした。
幸いにも私は何も持っていないのだから。
何も持っていないというのは、犠牲にする家庭もないし一人で好きなことをできるという意味で。


もちろん慣れ親しんだ環境を出ることに
不安がなかったわけじゃない。
だけど自分を崖から落として、どんな風に反発していくのか、自分を試してみたかった。このスタイルが向いているのは、度重なる自己分析の結果からわかったこと。

東京を出るときはありがたいことに
素敵な友人たちに背中を押してもらえた。
中にはあのときで
縁が切れてしまった人もいたのかもしれない。
家族とか友人って、
距離が離れても関係値は変わらないもの。
距離の問題で関係が薄くなるのだとしたら、
それは距離の近さありきで
繋がっていたものだと私は思う。

そういうものに依存するのではなくて、
例え一人でも
自分の興味があることに挑戦して経験を得たい。

挑戦する私には新しい出会いもある。
東京を飛び出した私に
然るべき人と出会うのだと思う。
出会える人は自分自身の投影だと思っている。


その先で、

私の傍にいてくれる人は誰なんだろう。
私は何を大切にしたいと思うんだろう。

答えを探すゲームをしながら、
今は新しい環境で暮らしています。


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