レナイ
朝食を作っている時、不注意から左腕に火傷を負った。薬を塗って包帯を巻いたら、なんだかリストカットを隠しているように見える。外はまだ暑いから、長袖は着られない。かといって、包帯を見た者に邪推されるのも嫌だ。だから出かけたくないと思った。仕事は休みだったのは幸いだった。食材も足りているし、外に出なければいけない理由は特になく、しかもちょうど今日は三連休の初日だ。次の出勤までに治る気がしているので、本当に幸運だと感じた。
昼になると、急にナポリタンが食べたくなったので、ふた駅先にある喫茶店に向かった。またしても幸いなことに、席がひとつだけ空いていた。早速、アイスティーとチキンドリアを注文した。食べ終わっても、店を出るのがなんとなくもったいない気がしたので、出がけに鞄に入れておいたフランス語の会話集を取り出し、読み始めた。フランス語は全く読めないし、そもそもアルファベットの上の点の意味もわからない。とりあえず、「オ・ルボワール」という言葉が別れの挨拶ということだけは知ることが出来た。
小さな声で「オ・ルボワール。オ・ルボワール」と繰り返し呟いていると、電話がかかってきた。学生時代からの友人からで「明日暇だったら飲みにいこうよ」とのことだった。明日も休みだし、明後日も休みだったが、今の私は左腕の火傷を隠しながらも治すことに専念しなければならない。なので、行けない旨を伝えた。友人は「また誘うよ、またね」と言った。それに私は「ごめんね、じゃあ、また」と答えた。電話を切ってから、「オ・ルボワール」という覚えたての言葉を使わなかったことを後悔した。
帰宅すると、包帯が汚れていることに気づいた。そして、出かけないようにしようと考えていたことを思い出した。しかし、何故出かけてしまったのかがいまいち思い出せない。ただただ、朝の、火傷をする前に戻りたいとだけ思った。
どうして、こんな生き方しか出来なかったのだろう。どうして、どこかで踏み外す前に戻れないのだろう。私は、ただ、素直に生きているだけのつもりだったのに。どうして、生きられない。どうして、戻れない。考え始めたら、眠れなくなった。夜は、長い。夜は、続く。とりあえず私は、ナポリタンを食べようと思い、冷蔵庫を開けた。