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シーソー
公園に、ひとりのスーツを着た青年がいた。彼はシーソーに如雨露で水をかけていた。表情は真剣そのものであり、気を違えているという様子でもない。私は彼に「何をしているのですか」と尋ねた。すると
「シーソーに、水をやっています」
と、答えた。なるほど、全く以てその通りだ。何も間違ったことは言われていない。むしろ、シーソーに水をやっていると明白にわかる青年に対し、その行動を尋ねた私の方がおかしいのでは、と思ってしまった。しかし、はっきりしたことがある。彼と私の、行動に対する認識は間違っていない、ということだ。すなわち私は、今見えている「彼」を、事実として信用して良いということだ。今、はっきりとここに宣言しよう。彼は、間違いなく、「シーソーに如雨露で水をやっている」のだ。
さて、彼の行動が、視認出来るものと違いがないと証明されたは良いが、どうしても不可解と言わざるを得ない。何故。何故そのようなことをしているのだろう。何か目的があるのか、それとも水をやることが目的なのか。さっぱりわからないが、水をやることが目的などふつうは有り得ないだろう。恐らく、何か目的を達成するための手段として、この行動があるに違いない。実に、簡単な推理だが、私は探偵にでもなったような心持ちになった。
「あなたは、どのような目的があって、シーソーに水をあげているのですか」
そう尋ねる私の顔はきっと得意げだったろう。自分でもわかるくらい、顔の筋肉が動いたことを感じた。しかし、彼は答え合わせをしてはくれなかった。完全に、無視された。彼は気を悪くしてしまったのだろうか、私をいないものとして扱っているかのようだった。
その態度に、少々の寂寥を感じた。しかし、すぐに憤りに変わった。そこで私は彼の行為を妨害すべく、如雨露を取り上げた。彼は激怒するのでも、慌てて取り返すのでもなく、ただ嘆息した。私が罪悪感を抱くことはなかった。