安定をどこに見つけるか
「安定択」「正解」
そういったものに感じる安心感を、否定するつもりはありません。
しかしながら、何故それが安定択なのか。
どうして正解なのか。
その土台が揺らぐ可能性を考え始めると、
安定と絶対は似て非なるものだと私は思います。
何かを考えたり、何かを選択するときには、
何らかのルールを前提にしていると思います。
「じゃんけん」で相手が先出ししていいときに、
目の前に「グー」が見えていたら、
自分は「パー」を選択するのが安定択です。
「じゃんけん」のルールが変わらないなら、
「パー」が絶対の正解かもしれません。
もし、「じゃんけん」のルールが変わって、
強さ関係が逆転すると、安定も絶対も変わります。
「じゃんけん」のように、簡単にルールは変わらない。
その思い込みが強すぎると、
実は少しずつ変わっていたものに気付かず、
気付いたころには別物だった。
そんなことがあるのではないかと思います。
時間の流れや、技術や知識の進歩、広がりは、
遠くで起きているようなことでも、
確実に影響が届くときが来ます。
自分が「絶対」だと思っているものは、
本当に不変なものでしょうか。
変わってしまうこともあるだろう、という曖昧さこそ、
「絶対」なのではないかと私は思います。
人の「適応」には終わりがありません。
発達が「生涯発達」であるように、
死ぬまで世界とのやりとりを終えることはありません。
もしかすると、今までは、
みんなで小さく囲って生きることで、
遠くの影響が届く前に人生を終える形があったのかもしれません。
しかし、今はもう、
遠くのものが早く届き、遠くのものが早く遠くに伸びていきます。
世界の在り方が変わっていったのに、
適応の在り方が変わらないわけがありません。
それでも、そうではないと思いたい人がいることも、
人間らしさなのだと思います。