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死後の意識の存続 2

②『タイタニック沈没から始まった永遠の旅』

エステル・ステッド著 近藤千雄訳 ハート出版 1992年

原著は、『The Blue Island』Estelle. W. Stead 1922年



タイタニック号沈没の犠牲者となったウィリアム・ステッドから息子エステル・ステッドに送られてきた通信。


霊界からの発信者ウィリアム・ステッド(1849~1912)は社会改革派のジャーナリストでありスピリチュアリズム普及活動にも熱心であった。彼が生前発表した『死後―ジュリアからの便り』(1898年)(日本語訳は、抄訳で『ジュリアの音信 不朽の霊信』桑原啓善抄訳 でくのぼう出版)は、かつての文筆仲間ジュリア・エイムズ(1891年に他界)が、死後の世界から彼に対し自動書記通信を行い、それをまとめたものである。




『タイタニック沈没から始まった永遠の旅』から引用

「地上時代にスピリチュアリズムとの出会いによって驚くと同時に感動したのと同じように、私は、今度はこちらへ来てみて、地上時代に得た霊的知識が重要な点において100%正確であることを知って、驚き、かつ感動しました。そうと知った時の満足はまた格別でした。学んでいた通りなので、驚きと喜びを同時に感じたものでした」

(『タイタニック沈没から始まった永遠の旅』エステル・ステッド著 近藤千雄訳(P31))


「この地上生活において、やって良いことといけないことについては、賛否両論がよく闘わされます。やりたくても控えねばならないことがあるかと思うと、思い切りよく実行に移さないといけないこともある……一体なぜでしょうか。

“そんなにうるさいことに拘泥わっていたら商売は上がったりさ”―-そんなことを言う人もいるでしょう。大っぴらに言わなくても、内輪ではそう言っているに相違ありません。なぜいけないのかが理解できないわけです。しかし、理由はちゃんとあるのです。しかもそれは、常識的に考えれば容易に理解できることなのです。いささか固苦しくなりますが、私はこれを因果律の問題として位置づけたいのです。

 宇宙の創造機構は、人間の想像を絶した緻密さをもって計画されました。その究極の目的は、各個に自由闊達な発達と進化をもたらすことです。そのための摂理は厳然としています。不変絶対です。各自は、良心という本能によって、今自分の行っていることが摂理に適っているか反しているかを直感しております。交通取り締りのお巡りさんのような人から教わる必要はないのです。

 もちろん、自分自身を欺いて“これでいいんだ”と主張することはできます。しかし、そう主張しながらも、心の奥では本当はいけないのだという意識を打ち消すことができずにいます。私は敢えて申し上げます――この事実に例外はない、と。つまり良心は必ず知っているということです。ところが大体の人間は、知らないことにしたがるものなのです。これは深刻な意義をもつ問題であることを認識してください。

 この種の問題を大抵の人は“善悪”の問題ではなく“損得”の勘定によって判断しております。動機の善悪の区別がつかないわけではありません。ちゃんと識別できるのです。そして、事実、本能的には正確な判断を下しているのです。ところが厄介なことに、人間は習性や損得勘定、社交上の面子から、因果律がめぐりめぐって生み出す結果を考慮せずに、目先の結果にこだわってしまいます。

 実に残念なことです。が、死後の世界との関連からいうと、“残念”では済まされない、可哀そうな、あるいは気の毒な事態となっていくのです。不快な思い、辛い苦しみのタネを蒔いていることになるのです。火炎地獄などというものは存在しません。精神的苦悶という、みずからこしらえた地獄が待ちうけているのです」
(『タイタニック沈没から始まった永遠の旅』エステル・ステッド著 近藤千雄訳(P78~79))

 死後の意識の存続については、「そんなこともあるのかもしれない」というレベルのものではなく、確固たる事実のようです。

 死んだら皆、地上の垢がとれて清浄無垢かつ賢明になるわけではありません。

 その人の意識のレベルはそのままで、死後の生活に対応していくようです。

 今日、引用した人物は、生前から死後の世界に関する適切な知識を有していたようですから、通信の内容にも深みがあります。

 人間性を高める、磨いていく、成長していく。
 これらのことはライフワークを超えた永遠のお仕事のようです。

 不正、強欲、謀略、略奪、暴力、、、歴史の本を眺めると、嫌なくらいに不快な出来事が列挙されています。こんなことが許されるの?と憤りを感ぜずにはいられないことがたくさんあります。
そして、この現実世界の出来事においても。

 しかし、人間は「この世だけ」の存在だけでなく、意識は死後も存続し永遠の成長の過程の中にあると達観したならば、この日常の小さな出来事の中にもなにかしら大きな学びの種があり、またいつかの過失の償いの機会であるのかもしれません。

 わたしたちの人生一瞬一瞬に、素敵な機会が秘められています。

 たとえ、今、あなたがどんな状況にあっても。苦しくても、辛くても。

 そうです。成長の機会です。
 今まで使って来なかった大きな力を活用するチャンスなのかもしれません。

 神の秤には寸分の狂いもないと聞きます。

 ご一読くださりありがとうございました。

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