スピリチュアル入門 2
前生、輪廻転生、霊媒、霊の存在に対する否定、疑問から、可能性、好奇心、真贋の見極めへと心が動いたならば、スピリチュアル系への入口にいる。
『転生の秘密』(ジナ・サ-ミナラ著)は、エドガー・ケイシーのリーディングの中で輪廻転生に関係するものから倫理的意義を見出そうとした試みでもある。
著者は、心理学者であり緻密な学術的な論証を試みている。
この本を読んだ時、大学生だった光田秀氏(日本エドガー・ケイシーセンター所長、著作多数)は、人生の意義について悩み悶々鬱々としていた日々から解放され、人生の本当の目標が定まったようである。
『転生の秘密』ジナ・サ-ミナラ著
『眠れる予言者エドガー・ケイシー』光田秀著
この2冊は、スピリチュアルな事柄への興味、関心が浅からぬ人々には、是非ご一読をお願いしたい。
・輪廻転生について
さて、輪廻転生を考察するということは、即ち肉体以外の存在を仮定することになる。そして、その主体とは霊である。
輪廻転生を考察する視点は、肉体を超え生死の境を超えたものである。
この問題を、現生、肉体意識から眺めると、おかしなことになってしまう。
霊的な問題は、人生の問題と同じく、絶対的な正解は存在しないかもしれない。
置かれた状況、自らのレベルに応じた、その時点、その状況における正解のようなものしか存在しないのかもしれない。
理解を深めることは、個々人の課題と思われる。
・奇跡的治癒について
スピリチュアルなことを求める人の中には、何かしら悩み苦しみ、解決したい問題があり、その突破口を求めている人も多いのではないだろうか。
病気は、人生における大きな悩みのひとつである。
特に、死を覚悟させるような大病は、本人の心を揺さぶるものとなる。
そして、現行の医療で解決が与えられない場合は、何かしら現代科学の枠を超えたものを求めることとなるのかもしれない。
奇跡的治癒の実例を探ってみよう。
探せば、奇跡的治癒の例は以外と多く見つかるものである。
おそらく、奇跡的治癒について、網羅することすら不可能なくらいに豊富にある。
具体例をいくつか拾ってみると。
脳死体験や臨死体験から甦った者。
この好例は『喜びから人生を生きる』アニータム・ムアジャーニ著。
自らの意志で、治癒の道を開いた者。
この好例は『ガンが消えた』寺山心一翁著。
メッセージを受け取りその指示に従って治癒したもの。
これについては、エドガー・ケイシーの透視によって治癒が叶った人は多数存在する。
治療者から、ヒーリングエネルギーを受け取り治癒していくもの。
ハリー・エドワーズが有名。
なぜか、自然に治ってしまった者など、治り方もさまざまである。
これらは、奇跡的であるがゆえに、現代科学の枠組みでは説明できない。
しかし、そこには、まだ人類にとって普遍的になってはいないものの、ある一定の法則、力が働いていえるとも考えられる。
ある一定の法則が存在していると仮定するなら、それは霊的な法則でもある。(もちろん、現代科学の先駆けの治療法も数多くあるだろうが)
その霊的な法則とは何か?
奇跡的治癒が生じた人に共通することは、祈りと瞑想である。この祈りと瞑想が、見えない力に関与していると考えられる。
祈り、瞑想が、霊的なエネルギー、及び霊的な存在が働きかける窓口となるのである。
実際に具体例をみてみよう。
癌が治った
この人は、病院を抜け出し、毎朝、瞑想を行う。そして、治癒の糸口をつかむ。そして導かれるようにして、フィンドホーンに出かける。そして、そこで治癒を体験する。この人には、治癒への強い意志、そして祈り、深い愛情があった。そして、それまで培ってきた人間としてのバイタリティーがあった。
(『ガンが消えた』寺山心一翁著)
臨死体験からの復活
これらの方々は、外面的には自己治癒である。
しかし、彼らは霊の世界で明晰な体験をしており、その霊界からのエネルギーをもらって、治癒している。
ここには、その人に課せられた使命のようなものを見てとれる。
いずれも、否定ではなく肯定の力が強く働いている。
自己否定を止めよという客観的な忠告も働いているようだ。
臨死体験は、自意識が、身体の危機的状況とは関係なく働いている。ここに、自意識は、身体を離れて働くことができる可能性が示唆される。
このような体験は、幽体離脱、体外離脱と呼ばれる。この体験を、健常な状況にあってもできる方が存在する。彼らは、霊界へ行き、そして戻ることができる。
霊的治療家に治してもらうもの。
これは、治癒を必要とする人に、特別な資質は求められず、治療者が特別な資質を有している。
古くから、その種の人は存在していた。
イエスキリストもそうである。聖書には、その記述がある。
スピリチュアルなことが、一部の人にはあたりまえになっている今では、多くの治療家が存在する。
しかし、その真実性については、未知数といってよいと思われる。
ここで、ハリーエドワーズの例をみてみよう。
彼は、多くの奇跡的な治癒を成し遂げた。しかし、全員を治せたわけではない。
ある患者については、動かなかった両足のうち、片方は動くようになった。しかし、もう一方は治癒しなかった。
ある患者は治らないままだったこともある。
しかしながら、ハリー・エドワーズは、病院で見放された患者ばかりを診た。
そして、その3割が奇跡的回復を遂げた。
これは素晴らしい数字である。しかし、その一方、霊的な力をもっている者が万能でないことを示している。
霊界とのつながりがあれば、必ず治ると考えることは、誤りである。
高慢、独善、利己的。このような性格の人に、霊界の上位の方が働きかけることはないと思われる。
謙虚、利他、少なくともこの徳性を有している必要があると想われる。
現行の医療に限界を覚えて、代替医療の門を叩くことを否定はしない。
しかし、霊的なエネルギーの万能性を唄い、治癒させると豪語する方に対しては、患者側は警戒する用心深さも必要である。
自信のない方は、自信満々の人の言説に惹かれがちである。
自信満々は、自己省察の習慣の欠如、高慢から生じることもあるのだ。
個人的に、3~4名の治療家に診てもらったことがあるが、効果は感じられなかった。
彼らは、自分に都合のよい治癒例、もしくは理論を強調する傾向があった。
私個人の観察では、人間的に尊敬できる人ではなく、むしろ幼稚さを感じさせるくらいの方もいた。
何かしら、自己のみたされない部分を霊的な側面に求め、そこに避難しているようでもあった。
霊的治癒は、霊のなす業である。
だから、その通り道は関係ないということは、いいわけである。
霊の力は、その通り道である人物の人間性にもおおいに左右されるものと思われる。
私たちは、霊の力を見抜くことはできないかもしれない。しかし、その霊の通り道である人物の人間性を観察することはできる。
真贋を見極める力は、いつも必要とされる。
大切なことは、霊を見極めることである。そして、また自分自身も霊であることを思い起こせば、自分自身を深め磨いていくことが、大切であることは自明である。
霊を見極める力は、その人自身の内に宿る力でもある。
しかし、内なる神聖な力を、曇らぬ眼で見つめることは、案外と難しいものではないだろうか。
覚醒しました!といって、一気に目覚めたかに振る舞う方がいるが、疑問の念を抱かずにはおれない。
昨日まで、憎しみに満ちていた心が、一瞬にして変わり飛躍的な成長を遂げるのだろうか?冷静に自己を振り返る必要があるのではないか。
覚醒という言葉は、それまでの存在の在り方から、新しい在り方へと移ったことを表現しているのであろうが、その覚醒というものは、一度きりのものではなく、断続的に、継続していくものではないだろうか。
謙虚で智恵豊かな霊が、その霊言において、霊性の成長に終わりという段階が見えないと、述べていたことを忘れてはならない。
つい、この間まで、物的な人生観に浸りきっていた一人の人間が、飛躍的な進歩を一瞬にして遂げることを、安易に信じるのだろうか。これらの人々には、まだまだ、多くの成長の過程が、その前方に控えているということを、私は確信する。
霊的な教え以前に、人間として求めていきたいものがある。
それは精神の高貴さである。精神性の高揚を促さない言葉に、どれほどの魅力があるというのだろうか。
虚心坦懐に眺めて情けない自分を慰めてもらうことが、そんなに大切なのだろうか。
自分自身を、さらなる高みへと誘う言葉の方が、遥かに素晴らしいものではないだろうか。
人間として、永続する霊として、私達は成長を求めている。
そして、奮闘努力を重ねて、少しづつ少しづつ成長していくのである。
私達は、可能性の顕現させること、精神性を高めることを欲する存在ではなかっただろうか。
スピリチュアルなことに関して、霊に関する基本的な知識を踏まえておくこと、そして霊を見極めることが、非常に重要なことになると思われる。
間違った知識で固められた人は、その間違った知識を洗い流すことから始めなくてはならない。
死後の世界においても、生前に培った誤った知識のために、長い間、霊の世界においての目覚めが遅れるということが多数報告されている。
霊の見極めが大切である。もしも霊信を受ける能力があるのであるならば、その霊の語る文章を慎重に吟味する必要がある。それができないならば、悪戯好きの霊に騙されても、なんら不思議はない。
己を見よ、発言内容から、相手の人間性を推し量る術を会得せよ。
文芸作品にも、智恵の深さ、心の深さが、おのずと表れているものだ。その深さ、浅さの区別がつかないならば、それは浅い人間であるにすぎない。ある程度の深さまで、自己を掘り下げられた人間は、その深さまでは、正確に計ることができるだろう。そして、まだ、自分自身をそこまで深めることができていないならば、深さの度合いは計りかねるに相違ない。
しかし、深さを計れずとも、その深遠さを感じとることはできるだろう。
霊からの通信をすべて、神のお告げと考えるのは、浅はかである。知らないもの、目に見えないものに、神は働いていることは、事実であろう。しかし、それらがすべて神であると考えるのは、思慮深い態度ではない。
今回はここまでにします。
お読みくださりありがとうございました。
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