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心理学者人物列伝 11 アルフレッド・アドラー

アルフレッド・アドラーってどんな人?生涯や豆知識、エピソードをわかりやすく解説!


今回は、フロイトおよびユングと並ぶ精神科医、心理学者である、アルフレッド・アドラーの生涯について解説します。個人心理学の創始者として知られるアドラーですが、近年では日本でもその人気が高まりつつあり、読者の方も関連本などを読んだ方も多いのではないでしょうか。ベストセラーになった『嫌われる勇気』は、まさにアドラー心理学を題材にした著作としてよく知られています。

アドラー心理学が日本でも人気を集める中、その生涯については意外に知られていません。本記事では、彼の生い立ちから功績までをわかりやすく解説します。

アルフレッド・アドラーの生涯

アドラーの心の探求は、幼少期における家庭環境が大きく影響しているようです。
順を追ってみてみましょう。

アルフレッド・アドラーの幼少期:医師を目指した原点19世紀末のウィーン

郊外で生まれたアルフレッド・アドラーの人生は、後の心理学者としての深い洞察を育む経験に満ちていました。1870年2月7日、穀物商を営む父レオポルドと母ポーリンのもとに、次男として生まれた彼は、幼くして人生の苦難を経験することになります

生まれながらにして身体が弱かったアドラーは、幼少期にくる病※を患い、4歳になるまで自力で歩けませんでした。また、声帯のけいれんにも悩まされ、他の子どもたちとの交流にも困難を感じていました。

しかし、最も彼の人生を変えた出来事は、4歳の時に罹患した重度の肺炎でした。死の淵をさまようほどの重症でしたが、この経験が、後に医師を志す強い動機となり、さらには人々の心の痛みに寄り添う心理学者としての道を開くきっかけとなったのです。

※くる病・・・骨の形成がうまくいかず、弱い骨が作られてしまう病気のこと。ビタミンDの不足が原因で骨が軟化するため、歩行が困難になったり、骨が変形したりすることがあります。

家族関係が影響したアドラー心理学の形成

7人兄弟の中で育ったアドラーの家族関係は、後の心理学理論に大きな影響を与えることになります。特に、母親との関係は複雑だったようです。母親が自分よりも兄を好んでいるという感覚は、幼いアドラーに深い劣等感を植え付けました。

また、3歳の時に目の前で弟を失うという悲しい経験も、彼の人生観に大きな影響を与えています。

これらの経験は、後にアドラーが提唱する「生活スタイル」の概念形成に貢献することになります。人は幼少期の経験から独自の思考・行動パターンを形成し、それが人生における様々な課題への対処方法を決定するという考えは、まさに彼自身の体験に基づいていたとも言えるでしょう。

ただし、こうした困難な環境にもかかわらず、アドラーは活発で人気のある子どもに成長していきました。特に父親との良好な関係は、彼に安定した基盤を与え、後の理論における親子関係の重要性の認識にもつながっていったと考えられます。

幼少期のアドラー

アドラーの医師時代:貧しい人々との出会いが生んだ洞察

1895年のウィーン大学医学部卒業後、アドラーは最初に眼科医として、その後内科医としてキャリアをスタートさせます。彼が診療所を開設したウィーン2区レオポルトシュタットは、当時、社会的・経済的に恵まれない人々が多く住む地域でした。

特に注目すべきは、診療所がプラーター公園(遊園地として有名)の近くに位置していたことです。この立地により、アドラーは空中ブランコ乗りや大道芸人など、独特な生き方を選択した人々と出会うことになります。

彼らの多くは、身体的な制限や社会的な困難を抱えながらも、それを克服し、むしろその弱点を強みに変えて生きていました。

この経験は、後の「器官劣等性※の理論」へと発展していきます。人間は身体的な弱さや制限を補うために努力し、時にはその弱点を特別な才能へと昇華させる──この洞察は、まさにプラーター遊園地の芸人たちとの出会いから生まれたものだったのです。

※器官劣等性・・・生まれつき機能的に劣っている身体的機能のこと。

フロイトとの出会いと決別:独自の理論への道

1902年からのフロイトとの関わりは、アドラーの理論形成において重要な転換点となりました。毎週水曜日の夜に開かれた研究会(水曜会)では、当時の著名な心理学者たちが集まり、活発な議論が交わされました。

しかし、フロイトとアドラーの理論的な違いは、次第に明確になっていきます。フロイトが人間の行動を過去の原因、特に幼児期の性的発達に求めたのに対し、アドラーは人間の行動の「目的」に注目しました。

また、フロイトが個人の内面的な葛藤を重視したのに対し、アドラーは社会的な関係性や環境との相互作用をより重要視しました。

そして、1908年に発表した論文が、両者の決定的な転換点となります。アドラーは性的エネルギー(リビドー)だけでなく、攻撃性や権力への意志といった要素も人間の行動を理解する上で重要だと主張しました。この主張は、フロイトの理論の根幹を揺るがすものだったわけです。

個人心理学の確立と社会への貢献

1911年のフロイトとの決別後、アドラーは翌年に個人心理学会を設立。独自の理論体系を確立していきます。個人心理学の特徴は、人間を社会的文脈の中で理解しようとする点にありました。特に重要な概念が「共同体感覚」※です。これは単なる社会性や協調性ではなく、他者との深い結びつきを感じ、社会に貢献しようとする根本的な志向性を指します。

 アドラーは、この共同体感覚の発達こそが精神的健康の基盤であると考えました。

第一次世界大戦後の混乱期、アドラーはこの理論を実践的な形で社会に還元しようと試みます。1919年から1920年にかけて、ウィーンに設立された児童相談所は、その代表的な例です。ここでは、家族カウンセリングが公開で行われ、教師たちも参加して学ぶことができました。この取り組みは、心理療法を個人の治療室から社会的な文脈へと拡張する革新的な試みへと発展していきます。

少女に包帯をまくアドラー

※共同体感覚・・・共同体感覚とは、自分が社会の一員であることを実感し、その中で役割を果たそうとする気持ちです。たとえば、子どもが学校で友達と協力して掃除を行うときに感じる連帯感も、この共同体感覚の一例といえます。

晩年と現代への影響

1932年にロングアイランド医科大学の教授として招かれ、その後1935年にアメリカへ移住したアドラー。そんな彼は、最期までその理論の普及と実践に力を注ぎました。1937年、スコットランドのアバディーンでの講演旅行中に心臓発作で倒れ、最期の言葉として息子の名を呼んで息を引き取ったという逸話は、家族との深い絆を大切にした彼の人となりを象徴しているようです。

アドラーの米国移民カード

アドラーの理論と実践は、現代の心理療法や教育理論に大きな影響を与え続けています。特に、人間を社会的存在として捉え、個人の成長と社会への貢献を結びつけた視点は、現代の心理学においても重要な指針となっていることは間違いありません。

世界各地に設立されたアドラー心理学の研究・教育機関は、その思想を現代に継承し、発展させています。日本でも日本個人心理学会を中心に、研究と実践が続けられています。

アドラーが提唱した「劣等感の克服」「共同体感覚の育成」「目的論的アプローチ」といった考え方は、現代社会が直面する様々な課題──いじめ、不登校、職場でのメンタルヘルスなど──に対しても、有効な視点を提供し続けています。

彼の思想の核心は、人間は誰しも不完全さや弱さを抱えているが、それを克服しようとする努力の中で成長し、その過程で他者や社会との結びつきを深めていけるという、深い人間理解と希望に満ちた洞察にあるといえるでしょう。

そしてこの洞察は、個人主義と社会の分断が進む現代において、今後ますます重要性が増していくことでしょう。 

アドラーと家族、友人たち(1933)

アドラーの豆知識・エピソードについて

アドラーにまつわる豆知識やエピソードを3つ紹介します。
温厚で質素な性格の持ち主だったようですが、生涯にわたり学問と真摯に向き合ったことが分かります。

謙虚な人柄のアドラー

ある日の講義後、学生たちと共にサンドイッチの昼食を取っていた際のことです。ある女性が「先生のような偉大な方にサンドイッチだけというのは失礼です」と声を上げました(昼食のメニューはいつも質素なサンドイッチだったとのこと)。

これに対してアドラーは静かにこう答えたと言います。「いいですか。もしも私の中に偉大さというものがあるとすれば、私が食べたもののためではありませんよ」

この短い会話からは、権威主義を嫌い、質素な生活を好んだアドラーの人柄が鮮やかに浮かび上がってきます。この謙虚な姿勢は、彼の理論における「共同体感覚」の重視とも呼応しているのかもしれませんね。

カール・ポパーとの対立

そんなアドラーの理論に一石を投じたのが、哲学者カール・ポパーでした。科学哲学を軸とし、科学における反証可能性を提起したポパーは、アドラーの理論を擬似科学であると批判します。

ある日、ポパーが小児患者の症例を報告した際、アドラーはその患者を実際に診察することなく、自身の劣等感理論によって即座に分析を行ったというのです。

ポパーはこの経験を基に、アドラーの個人心理学を「反証可能性のない理論」として批判しました。どのような事例でも都合よく解釈できてしまう理論は、アインシュタインの相対性理論のような科学的理論とは一線を画すものだと指摘したのです。

カール・ポパー

フロイトの弟子じゃない??

精神分析の流れは一般にフロイトから始まり、ユング、アドラーと引き継がれていくと考えられています。これは間違いとは言えませんが、アドラーは自身を「フロイトの弟子」とは考えていなかったのだとか・・・。

一方で、フロイトはアドラーを弟子の一人としてみなしていたようで、両者の見解に大きな食い違いがみられます。こうした違いもあってか、1911年、アドラーはフロイト及びフロイト一派と決別し、別の道を歩むこととなりました。

アルフレッド・アドラーについて:まとめ

いかがでしたでしょうか。
今回は、20世紀における精神分析の大家アルフレッド・アドラーの生涯についてわかりやすく紹介しました。

解説書では多くの理論が説明されていますが、
彼の人生について知る機会はそれほど多くありません。

そのため、この記事をきっかけに、彼の人生を含めて少しでも知識や教養となれば幸いです。

アドラーのさまざまな理論についての詳しい説明は、医学書院より好評発売中の『心理学【カレッジ版】』を参照ください。

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