心理学者人物列伝その3 J.B.ワトソン
J.B.ワトソンとはどんな人物?その生涯や豆知識、エピソードを簡単に解説!
行動主義心理学を提唱し、20世紀の心理学において多大な影響力を及ぼしたJ.B.ワトソン(以下ワトソン)。ワトソンは心理学を他の自然科学と同様「真の科学」とするため、意識・記憶・思考といった内的な心理過程の研究から距離を置き、刺激と反応を客観的に観察する科学的手法を重要視しました。
またパブロフの「古典的条件づけ」に影響を受けたワトソンは、人間行動の多くが後天的に獲得されるという環境主義を唱え、オペラント条件づけを定式化したスキナーにも影響を及ぼしています。
では、20世紀における心理学の歴史に大きな功績を残したワトソンとはどのような人物だったのでしょうか。今回はエピソードを交えつつ、ワトソンの人生を紹介します。
ワトソンの生涯について
20世紀における心理学の巨人ワトソンの生涯を紹介します。幼少期の家庭環境は決して良いとは言えなかったようですが、学問の才能に恵まれたワトソンは、人生の早い時期から頭角を現しました。
学校嫌いな少年時代
ジョン・ブローダス・ワトソンは1878年1月9日、アメリカ・サウスカロライナ州グリーンヴィルに生まれました。母エマはとても信仰心の厚い人物だったようで、幼少期のワトソンは、母から過剰な宗教教育を受けて育ちます(この生活がワトソンの反発を招き、ワトソンは生涯にわたり無神論者となります。
一方、父ピケンズはというと、信仰心の厚い母とはまったくの正反対。大酒飲みのためにアルコール依存症に陥り、暴力をふるうことも少なくなかったと言います。そんな父ピケンズは、ワトソンが13歳のときに家族を捨て、家を出てしまったそうです。
現代風に表現すると毒親に育てられたワトソン。当然、幼少期のワトソンの心も荒れていったのは想像にかたくありません。この時期について、のちにワトソン本人も「手に負えない子供で、学校の成績も悪かった」と回想しています。
そんな荒れた青春時代を過ごしたワトソンですが、母の尽力により16歳で地元グリーンヴィルのファーマン大学に入学。学業成績は芳しくなく、お世辞にも真面目とは言えない学生だったものの、心理学のコースを修了。21歳で修士号を取得し、ファーマン大学をあとにしました。
心理学の道へ
「成績が悪く、真面目でもない人間が修士号?」と思いますよね。しかしワトソンの成績が悪かったのは、単に勉強熱心ではなかっただけで、実際は早熟の頭脳を持つ人物でした。
その証拠に、ファーマン大学で修士号を取得したワトソンは、1903年、25歳でシカゴ大学でも心理学の博士号を取得しており、これ以降、心理学の研究に没頭します。
生来の学問的才能を発揮したワトソンは、当初イワン・パブロフの研究に触発され、動物に関する生物学、そして行動学の研究を開始。その後、子供の行動学へ関心が移ります。
そして1908年、ジョンズ・ホプキンス大学の心理学教授となったワトソンは、まもなく比較心理学(動物心理学)の研究室を設立。たびかさなる実験の末、ワトソンはすべての動物を「経験によって条件付けられた状況に反応する、極めて複雑な機械である」と捉え、1913年、コロンビア大学での講演「行動主義者から見た心理学」において行動主義を提唱しました。
またワトソンによる行動主義の提唱は、神秘主義的で哲学的とも言えるフロイトへのアンチテーゼとなり、心理学に新たなフェーズを生み出すことになります。
アメリカ心理学会会長に就任
既存の心理学を超え、新たな地平を切り開いたワトソン。心理学を科学的アプローチへ昇華させた彼は、1915年にアメリカ心理学会の会長に就任します。ワトソンの行動主義は、その後B.F.スキナーへと引き継がれ、さらなる発展を遂げます。
1950年以降、行動主義はその支配力を失い始めたものの、条件づけや行動修正は心理学における重要理論として研究が続けられ、現在でもカウンセリングや行動訓練などの幅広い分野で応用されることとなりました。
一方、アメリカ心理学会会長まで上り詰めたワトソンはというと・・・。
1921年にスキャンダルにより大学を解雇され、知人の紹介で広告代理店に身を転じ、のちに副社長となる波乱の人生を送っています。
しかしその間もワトソンは心理学に関する論文を継続的に発表しており、亡くなる直前の1957年にはアメリカ心理学会からゴールド・メダルを受賞。翌年の1958年に80歳でこの世を去りました。
ワトソンにまつわるエピソードを紹介
ここまでワトソンの生涯について紹介しました。大学を解雇されたワトソンでしたが、広告代理店の社員をしながら心理学の研究を続け、晩年は農場で悠々自適な生活を送っています。
では、そんな波乱万丈の人生を送ったワトソンのエピソードには、どのようなものがあるのでしょうか。今回は4つのエピソードを紹介します。
高校時代に2度逮捕される
両極端な親に育てられたワトソン。当然ながら彼の少年・青年時代は、穏やかなものではありませんでした。母による過剰な宗教教育、そして家族を捨てた父に対して抱いた憎悪。このような状況のなか、ワトソンの心は次第に荒れていきます。
そんなワトソンが重大な事件を起こしたのは、高校時代のこと。1度目はケンカ、2度目は市内で銃を発砲し、2度の逮捕という事態を招きます。しかし母の助けによりファーマン大学への進学を許されたワトソンは、キャンパス内でいくつかの仕事を請け負いながら自身で学費を工面し、その後シカゴ大学で博士号を取得しています。
女性関係のもつれで大学を解雇された
大学院在学中にメアリー・イクスという女性と結婚し、公私にわたり順調な生活を送っていたワトソン。その後、アメリカの名門ジョンズ・ホプキンス大学で教鞭を取るまでになったワトソンは、将来を期待される心理学者になっていました。
しかしここでのキャリアが、ワトソンの人生に転換点をもたらします。あろうことか、ワトソンは当時学生だったロザリー・レイナーと恋愛関係となり、それが大学を巻き込む大スキャンダルへと発展。2人の不倫関係は新聞の1面を飾るほどのニュースとなり、1920年10月、大学側はワトソンに辞任を要求したのでした。
辞任を受け入れたワトソンは1921年に離婚が成立した後、レイナーと正式に結婚。1935年にレイナーが亡くなるまでに2人の息子をもうけています。
<h3>広告代理店に勤務
大学教授の職を失ったワトソンですが、1920年代後半から友人の紹介で広告代理店J・ウォルター・トンプソンの社員として働き始め、広告業界のノウハウを徹底的に学びます。業界についてまったく知識のなかったワトソンですが、優れた業績により、わずか2年で副社長に就任するという異例の昇進となりました。
ワトソンが打ち出した広告はどれも大ヒットとなり、役員給与に加え、さまざまな広告キャンペーンの成功によるボーナスも手にしたとのこと。その給与額は教授時代の何倍もの収入になったそうです。
また一説によると、今では当たり前となった「コーヒーブレイク」を世に広めたのも、ワトソンだと言われています(マックスウェル・ハウス・コーヒーの広告キャンペーンだった)。
大女優の祖父でもある
アメリカの女優マリエット・ハートレイの祖父でもあったワトソン。ハートレイはアルフレッド・ヒッチコック監督の「マーニー」への出演や、プライムタイム・エミーの主演女優賞を獲得するほどの女優です。
大心理学者を祖父にもつハートレイですが、あまり良い思い出はなかったとのこと。というのも、マリエットから見たワトソンは「家族に愛情があまりなかった」人物で、事実ハートレイの両親は、アルコール依存症に陥っています(すべてがワトソンが原因とは限りませんが)。
真偽についてはわかりませんが、心理学者だったワトソンが必ずしも良好な家族関係を築けなかったというのは、興味深いですね。
ワトソンの生涯まとめ
今回は行動主義の提唱者ワトソンの生涯について解説しました。本文ではエピソードを中心にお話しましたが、ワトソンの有名な実験「アルバート坊やの実験」や、行動主義については、以下の教科書でわかりやすく解説していますので、より本格的に心理学を学びたい方は、ぜひそちらを参考にしてください。
次回はB.F.スキナーを解説します!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?