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田中清司。

 師事した、と言ったら弟子にした覚えはないと怒られるはずだけど、独立後、繁忙期だけお手伝いしてた、田中清司先生の事を少し。

 K先生に独立の報告をしに行ったときに、どうせヒマなんだろ、田中のとこに手伝いに行け、と言われたのが最初だった。
その頃、ちゃんとアシスタントのO氏が居たが、彼も半分独立、スポーツ系の撮影をしていてシーズン中は手が足らず、私が呼ばれた。手伝ったのは家電のP社のロケ撮影が多かった。ロケハンにも駆り出されて、そのP社の蛍光灯カタログ向けに、上手に使用している店舗を近畿圏で探してくるというものもやった。96年にはそのまとめで、アメリカロケにも同行した。
その頃になるともう私も自身の仕事が忙しくなり、たしか98年頃かな、えべっさん、大阪の今宮戎神社の十日戎の福娘を主題にした印刷物制作の撮影に同行したのが最後になった。その時も、次の作品を考えている、大阪人の浪速の顔というテーマで撮影するので、お前手伝え、と言われた。作品作りに関わるのは初めてで、とてもわくわくしたことを思い出す。そして、お前もなんか早くモチーフを見つけて、取り掛かれ、と。
 私が写真を志す前の話。昭和50年に「曽根崎心中」という個展、昭和59年には「たまふり」という個展を、心斎橋パルコや大阪の現代美術センターで開催。パルコには加納典明がバイクで来たそうだ。あのヤローカッコつけやがって、と笑顔で教えてくれた。「曽根崎心中」には藤本義一が一文を寄せていた。その後も、あの西川猛先生と共著で「聖域伊勢神宮」を著したりと活躍されていた。何時頃からか、油絵を描き国画会というところへ所属して、創作活動もしている、と聞いて、ああやっぱり、この人も絵を描くというのが出発点だったのかと妙に納得してた。田中正剛という雅号で、一度、国展にも見に行った。写真で表現していたのと同じモチーフで絵も描かれていた。

話は変わる。
その後、98年頃、私は趣味だったオフ系のオートバイ仲間から、トライアルというのを知り、だんだんとハマっていき、バイクも手に入れ、乗り始めていた。その過程で知り合ったトライアル専門誌の編集長から、イギリスのスコットランドで行われる、今のトライアルの礎となる競技大会、SSDT、スコティッシュ・シックス・デイズ・トライアルの事を知った。100年以上前から続いていて、世界中から、トップライダーから腕に覚えのあるアマチュアまで300台近くが参加、毎日、湿地帯やはげ山を駆け回り、途中30ほどあるセクションを通過しながらバイクを壊さず、脚を付かず、六日間にわたって走り、腕前を競う。これがどうにもこうにも面白そうで、さらにはその直前の二日間には、同じ場所で1965年以前のオートバイ(つまり日本車が台頭する前)だけによる「プレ65」というトライアル競技大会もある、ってことで、もう矢も楯もたまらず、カメラを持ってフォートウイリアムというネス湖の近所まで出かけてしまったのが2000年5月。トライアルは右も左もわからない事ばかりだったが、おかげでますますトライアルの虜になってしまった。
その時、来ていたカメラマンのTさんと帰国後、共同でカレンダーを製作、トライアル専門誌の付録として出すことが決まった。年内に無事出来上がり、少しは販売もして、ようやく落ち着いた春に、やっと見ていただけるものが出来たと、いそいそ田中先生のもとへカレンダーを持って出かけた。2001年の2月だった。

*長くなったので、この辺で。もう少し続きます。


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