ありのままがあるところ 福森伸
鹿児島にある福祉施設、しょうぶ学園。
知的障害者のための、大規模な入所施設。
「入所施設」と知らなければ、おしゃれな博物館か公民館、あるいはただの公園と勘違いするかもしれない。本当にいい場所だと思う。
この本「ありのままがあるところ」が出版される少し前に、偶然しょうぶ学園に見学に行き、著者である福森氏の話を聞くこともできた。
当時残した自分のメモを振り返ると、概ねこの本に書かれたことを生の声で聞いていたのだと思う。実際話を聞いて、そして園を歩いてみて、感じたことを思い出しながら読んだ。
「普通とは何か」
「いかに健常者が常識に囚われているか」
施設長の福森氏は障害者と関わる中でこうした感覚を持ち続け、粘り強く活動した。その結果、管理的閉鎖的な入所施設を自由で開放的な場所に変えてきた。
この社会を変える!といった大いなる目的があったわけじゃない。ただ、毎朝整列させて点呼するのはおかしいよねとか、チャイムが40秒も鳴っていたらうるさいとか。
そういう必要ないルールを一つずつ変えていくこと。その積み重ねが今に繋がっている。
福祉の現場でよく問題視されるのは、職員が利用者に向ける眼差しの問題、いわゆるパターナリズムだ。
職員は、作業の期限や支援計画の目的に沿って、利用者を支援(指示)する。始めは本当に利用者本人を思ってやっていたことでも、いつの間にか職員の思想を押し付けていたりする。
三角食べができなかった人がご飯とおかずをバランスよく食べられるようになったり、集団での作業に参加できなかった人が集団に入って活動できるようになったりする。
これを、支援の成功と言っていいのだろうか。本当に本人の幸せに繋がっているのか。もちろん選択肢が増えること、効率が良くなることを否定はしないけれど、それでよかったのか本人に確認したのか(あるいは確認しようとしたのか)。
パターナリズムとは、こういう支援者側のエゴであり、福祉施設では常にこの陥穽に落ちないよう気をつけないといけない。
自分の当たり前に自覚的になり、管理的にならないように気をつける。この姿勢こそ、福祉に関わる上では「当たり前」だ。
今回の本「ありのままがあるところ」では、福祉に関わる者としての「当たり前」を確認して、何度も読者に普通や常識とは何かを問いかける。
「健常者はこの社会の効率やお金に囚われるが、障害者はそこから自由である」という少しずるい語り口をしているなとも思う。これは、半分本気で半分戦略的に言っているのだろう。よく練られた力強い言葉たちだった。
ただ、パターナリズム批判で終わらないところがこの本のとても良いところだ。
常識に囚われず、障害者から見た世界を想像して、彼らに寄り添う。ものすごく大切だし、各々が自分の言葉でこのことについて考えないといけない。
そして、それは常に職員全員できた方がいいに違いない。しかし、そううまくはいかない。みんな福森氏のようにはなれない。
職員だって人間だ。これまで育ってきた環境、大切にしてきた価値観がある。人との相性もある。
バリバリしょうぶ学園を変えようとしていた頃の福森氏は、職員の意見も変えようとしていた。パターナリズム的な意見を持つ職員とも粘り強く話し合い、自分の考えを理解してもらおうと努力した。「自分の考えは間違っているのか、いややはり間違っていない」という葛藤を繰り返した。
しかし、結果的に考えの合わない職員を排除することにつながった。個人的にそこを正直に語るところに誠実さと強さを感じる。
それからは、無理に変えようとはしなくなったと言う。「それもアリだね」と言えるまでにはそういう経緯があった。
始めから「どんな考えの人も受け入れます!何でもあり!」と言うのではなく、一通り自分の信念を説明し尽くして、時には傷つけ合うこともあって、その後に「その考え方もアリだね」と言えるようになる。すごく府に落ちた。
ありのままがあるために、僕にできることは何だろうと考えた。
やはり僕は、自分の言葉を磨くしかないし、大切だと思うことを発信したいと思う。
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