ダブルスタンダード使い
過去記事を読むとハッピーな世捨て人みたいな感じがして自分でも明日はどっちだって感じなんですけど、今日はダブルスタンダードの話。
本音と建前という言葉がありますけれど、ウチでは子どもに割と早い段階からこの二つの違いについて説明したり考えさせたりしてきました。そこにもやはり義両親という立派な社会性の壁があったという事情はありますが、「常に100パーセント正しい言葉には情報量がない」と親らしからぬ信条を持って本人のニーズを明らかにすることに努めてきました。
自分の本当の気持ちと、世の中で美しいとされる行動。そこを一緒くたにすれば手っ取り早くいい子が一丁上がりですが、将来「何をしたいの?」「何が得意なの?」と問われる世の中に出たときに行き詰まるに決まってますね。もはや単一価値観の世の中ではないというやつ。
親から見てめんどくさい行動って大概本人の切実なニーズを反映しているものなんですよね、時間と気力がないときはスルーしちゃうけど。あと、他の大人がいる前ではなかなかつきあいきれない。だから、かなり限られた場面の育児態度ではありましたが、行動の理由を探すべくよーく観察し、ニュートラルに聞いてみる。
ルールはルールだが、あなた自身の気持ちとは別。
本音の方をスタート地点として見定めたら、あとは建前の方とどの辺で折り合いをつけるかという一種のネゴシエーションです。ポイントは、常に自分の気持ちを認めて見失わない。たとえそれが今回かなわない内容だったとしても、なかったことにはしない。これ一人ではなかなかできないことなんですよね。ほんとうに認めていいのか不安で自信がない。だからこそ、寄り添う。全面肯定ではないにせよ「まぁ人間そういうこともあるよねーきっと」くらいな感じで普通にそばにいる。それでいいっていうか、そのくらいしかできないですよ。本人にとっての最適解は本人自身が選んで試行錯誤していくしかないのです。
他人だからこそ支えることができるという要素は大きいと思う。共倒れしないためにも持ち場を守る。そういう絶妙の距離感をとっているといろいろ楽になってくるんですよー。今ではね。これも悪戦苦闘の末に得た大切な知恵でございます。