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支援はやってやることではないと気づけ
阪神淡路大震災のとき、私は福祉学生だった。
1年のゼミのときに「徹底的に支援はしてあげることだ」と啖呵を切っていた。周りもそうだった。概論的なゼミの教授をやり込めたりいろいろしていた。1年生という何も知らないが、ゆえにいろいろある。そこで教授がどこまで受容していくかが大事かもしれない。私たちの教授は「いつかわかるわよ」という感じだった。
1995年、未曾有の被害となる阪神淡路大震災が発生する。このときに全国からボランティアが集まり「ボランティア元年」といわれた。私も友人と一緒に神戸に向かった。震災40日後だった。
神戸も三宮は壊滅のまま、倒壊した阪神自動車道が片付いていたころだった。ボランティアに参加する前に三宮に行ったが、その状況に唖然とした。芦屋市のベースを起き、東灘区での活動だった。芦屋からは自転車か電車で神戸市内に「出勤」する毎日だった。
ここで配属になった避難所はある程度、固まった避難所だった。これは悪い意味である。
リーダーが失業中の料理人で震災の炊き出しをきっかけに「復帰」した。この避難所に住み込んでいた。そこに大学生を中心としたボランティアが出入りしていた。そのうち「リーダー」になった。が、何でもやってあげる雰囲気がある避難所になっていた。ボランティアは給仕人となっていた。
そこで私は驚くべきことを知った。野外での活動を終えて避難所の水道で手を洗っていた。被災者の方が入ってきた。そこで「水をタンクに入れてほしい。それを部屋までもっていってほしいと。」といわれた。タンクは1.5ℓの小さなものだった。私は「できないんですか?」と訊いた。そこで。
「重いでしょう。みんなやってくれるからね」
「できることはやったほうがいいです」
と私は断った。
その他にも食事の時間に食事を持ってこないと激怒したり、毎日行政から支給されるパンを「毎日同じだ。こんなの食えない」といって、そのパンが避難所の出口に「ご自由のお持ちください」とおいてあった。消費期限がきたら廃棄である。
ボランティアリーダーは「やってあげることが正しい」という考えだった。私たちのボランティア団体に関わっていた大阪の大学で社会福祉を教えている先生に相談をした。そこで翌日にこの避難所に訪問してくれた。
先生は顔色が変わった。自立できていないうえに雰囲気が悪い。これはボランティアが作り出している変な雰囲気だともいっていた。さらにリーダーを観察したり、話を聴いていた。
「こりゃ、あかんわ。被災者さんがダメになっておるわぁ」
「あんたらはこの避難所じゃなくてこの周辺で家にいる方のニーズを探すことに活動内容をかえたらええわ。そこで物資はこの避難所から持っていくんや、ええか?」
「あんたらな。ボランティアに基本は『汝、思いを尽くし精神を尽くし』やで、けどな、やりすぎはあかんねん。あの避難所みたいになってまうで」
私たちは街に出た。先生は
「あんたら炊き出しは被災者さんのためのもんや。食ったらあかん。やっている店で食うんやど。それが経済を回すんや。何よりも彼らの自信にもなるやろ。ほな、そうせ」
といわれた。街を自転車で闊歩して被災者数が20人以下の被災集落、障がいを持つ方が複数形居住しているの支援が入っていない地域や在日韓国・朝鮮人の方々で一切支援が入っていない方のお宅などを見つけ、訪問をして行政に交渉をした。
阪神淡路大震災のボランティアを通じて、「自立支援」とは何か?たかがボランティア、されどボランティア。しかし、ボランティアの方針で自立を妨げてしまうことに気づかされた。
この先生と避難所から得たものは多かった。
私はボランティアを終えて東京駅に着いた。すぐに概論のゼミの教授の研究室に向かった。教授に今回のことを話して「『徹底的に支援はしてあげることや全部やってあげることは自立を妨げる』ことを身をもって知った」と報告した。教授は笑顔で「よかったわね」と。