「1人のことを喜ぶ」
ここでは2024年10月27日(日)の十日町教会における日曜礼拝メッセージを掲載しています。
聖書:マタイによる福音書18章10~14節
メッセージ本文:
新潟県中越地震20年追悼コンサート
おはようございます。先週23日水曜日は新潟県中越地震から20年という節目の時でした。十日町教会では礼拝堂を会場にして追悼コンサートを開催して20年前の地震のことを思い起こし、さらには今年の正月に発生した能登半島地震によって被災された方々を覚えて祈り合わせる時を持ちました。コンサートは前半と後半の2部制になっており、後半は田村優子さんによる篠笛とうたのコンサートでそれはそれは聞き応えのあるコンサートでした。しかし後半部だけでなく前半部もとても良い内容で、そこでは新潟県中越地震と十日町教会の働き、十日町幼児園、山本愛泉保育園、清心保育園の当時の職員たちが子どもたちを励ますために作った「おうちがゆれた」という歌の合唱、新潟教会長倉先生による新潟地区の災害支援活動報告、そして地震発生時刻に合わせて黙祷と祈りが捧げられました。
長倉先生が新潟教会に着任されたのは2010年の秋です。先生の前任地は私と同じ千葉県の四街道教会です。先生は着任して数ヶ月後に東日本大地震を経験され、新潟地区の災害支援として当時十日町教会牧師であった新井純先生と一緒に宮城県や岩手県に支援に向かわれます。そして新井純先生の言葉と行動を通して災害支援のあり方の多くを学び、新井先生が京都に転任されてからも災害支援の働きを受け継がれて全国で発生する様々な災害の支援活動を新潟地区として展開されています。
災害を経験して苦しいこと、つらいこともあったけれど人の優しさに触れた。助け支えてくれる人に感謝する思いを持つことができた。でもそういう綺麗なことだけではなくてどうしてもやりきれない思いが残っている人がいる。しかし同じく被災してやりきれない思いを知っている人間として別の地域で起こった災害支援に赴き、やりきれない思いを抱えて涙流す人の側に黙って居続ける。そういう支援の形があるのだということを長倉先生のお話を通して知ることができました。
1匹の迷い出た羊
今日皆さんとご一緒に聞いたイエスのたとえ話は1匹の迷い出た羊の話です。ある人が100匹の羊を持っていたがそのうちの1匹が群れから迷い出てしまったとすれば、その人は99匹を山に残して迷い出た1匹を捜しに行かないだろうか。いや必ず行くはずだ。それが天の国のありようだ。これが教会に生きる人、キリスト教を信じる人たちが大切にすべき態度だ。そのようにイエスは私たちに語りかけています。
迷い出た1匹の羊は地震によって避難所での生活を余儀なくされた人たちでたとえるなら、ほとんどの人が避難所を出て自らの生活に戻っていく中でいまだ傷が深くて何のやる気も起きず、避難所から移動することのできない1人の人やその他様々な事情で避難所から移動することのできない1人を指すでしょう。正月に発生した能登半島地震でもたくさんの人が避難所生活を余儀なくされました。しかしこの国の支援のありようは非常に冷たく、一次避難所から人々を半強制的に退去させる態度を取り、報道機関がこれを問題として取り上げていたことは私たちの記憶に新しいです。
イエスはここで私たちに99匹と1匹のどちらを取るのかというあれかこれかという二項対立の問いを出しているのではありません。避難所にいる多くの人は立ち上がってそれぞれの場所に戻って行った。でも少数の人たちはまだ立ち上がれないでいる。神さまはそういう人の側にいたいと思われる方であると言いたいのです。99匹はどうでも良いと言っているのではありません。今回は迷い出なかった99匹ですが違う機会に迷い出てしまったら、神さまは必ずその1匹を捜しに出かけて行って側にいようとしてくださいます。そして迷い出た1匹が見つかったら「なんで迷子になるんだ」とか、避難所に残った最後の一人が立ち上がって避難所を後にする時には「あなたが最後でしたね」と責めたり嫌味を言ったりする方ではなく喜んでくださる方なのです。私たちもそのような神さまの姿を見習って一人を大切にする生き方をしたいものです。
同志社の校祖・新島襄
先週の月曜火曜日と関東の若手牧師たちの研修会で群馬県安中市に行ってきました。安中といえば同志社にとって非常に縁の深い地です。同志社を設立した新島襄は安中藩の出身でした。そんなことで研修会2日目は新島襄ゆかりの地を巡りました。新島家の旧宅、安中教会、そして同志社と安中教会を支えた湯浅治郎という有力な信徒が営んでいた有田屋という醤油屋を訪ね、お話を聞いたり掲示物を読んだりして私に大きな影響を与えてくれた母校の源流に触れ、胸が熱くなる思いでした。新島襄が遺した言葉というのは同志社界隈にいくつも伝わっておりますが、その一つに「人一人ハ大切ナリ」という言葉があります。「諸君ヨ人一人ハ大切ナリ、人一人ハ大切ナリ」と新島は「人一人ハ大切ナリ」を繰り返しています。この言葉はどういう時に語られたかというと同志社創立10周年記念という祝いの場です。10周年ですから多くの来賓を招いた盛大な式典の場でしたが、実はこの式典の前に新島は欧米旅行中に行っていて、その間に同志社では7名の学生が退学処分になるという出来事がありました。新島はこの出来事に心を痛めてこの言葉を語りました。彼の心にあったのは今日のイエスのたとえ話に出てくる迷い出た1匹の羊と、その羊を捜し求める羊飼いの姿だったのでしょう。「同志社はたくさんの学生が与えられて経営的にも順調だから7人くらいの退学者が出ても良いということでは決してない。人1人は大切なのだ。そのことを心に留めて同志社の教育を続けていこう。」そのような思いが込められているように思いますし、私自身も牧師としてまた園の理事長園長としてこのことを何度も何度も思い起こしながら歩みたいと思わされています。
十日町教会の前任の牧師たちの姿
さて水曜日に追悼コンサートでしたが、ちょうどこの水木と教会員であり山本愛泉保育園の園長であったMさんのご親族の方が十日町に来られました。木曜日私は園の行事で留守の予定でしたが急遽中止となったため、Mさんのご親族の方と一緒に教会墓地を訪れ祈る時を与えられました。その時にMさんのご親族が持ってきてくださった写真の中に教会の外に立つ新井先生の写真がありました。これは一体何の写真なのだろうと疑問に思っていたらHさんがこう解説くださいました。「これはMさんが十日町を後にされて大阪に行かれる際の写真です。新井先生はMさんの乗る車が見えなくなるまで道に立ち、手を振って送られました。久保田先生も教会員を送る際は同じようにされました。」とても胸に響いた言葉でした。先輩牧師たちの振る舞いを通して改めて今日のイエスのたとえに出てくる1匹を大切にする良い羊飼いの姿を教えられた次第です。「人1人を大切にする。」これが同志社の校祖・新島襄から連綿と続く同志社のキリスト教精神であることを心に刻みました。
天の神の思い、地上にも
イエスはたとえ話をとおして私たちに問いかけています。「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残して、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」あなたがその立場だったら迷い出た一匹を憐れに思い、心突き動かされて捜しに行くのではないか。それが天の国の姿であるから、あなたがたはこの地においてそれを行いなさい。
私たちはこのイエスの問いかけにどう答えましょう。私たちの主イエスが教えてくださった祈りを持って答えたいと私は思いました。このような祈りです。「天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。」神さま、「みこころが天に行われるとおり地にも行われ」るよう私たちを聖霊で満たし、私たちをみ国のために用いてください。祈りを合わせましょう。
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