見出し画像

あなたは無条件に愛されています

この記事では2025年2月2日(日)に十日町教会で行われた日曜礼拝における聖書メッセージを公開しています。

聖書:ルカによる福音書13章6~9節

メッセージ本文:

 今日のイエスのたとえを聞いてどんなことを思ったでしょうか。このたとえを初めて耳にするともしかしたらぶどう園の主人の言い分が正しいように感じるかもしれません。あるぶどう園に3年もの間実をつけないいちじくの木が植っているのです。現代は特にコストパフォーマンスやタイムパフォーマンスというものに価値を置く時代であり、生産性のない人間に価値はないと発言してしまう国会議員がおり、その背後に同じ価値観を持った多くの人がいるような社会です。ですから土地の無駄だから実のならないいちじくの木を切り倒してしまえという主人の主張はもっともだと思うのは、この時代に生きる人の感覚としては自然なことかもしれません。

 ここである人の話をしたいと思います。仮にAくんとしましょう。Aくんは子ども時代、テストで良い点を取ると親にたくさん褒められ愛情を感じていましたが、悪い点を取ると叱られました。だから一所懸命に勉強して良い点を取り、親に褒めてもらおうと頑張りました。小学生の頃はそれで良かったのですが、中学、高校と上がるにつれてだんだんと勉強が難しくなり必死に勉強しても良い点を取るのが難しくなりました。小学生の頃にテストで100点を取るとあなたは賢い子、私たちの自慢の子よと褒めてくれた親でしたが、中学生高校生になり必死に努力して取った70点は褒めてもらえません。もっと勉強を頑張りなさいと叱咤激励されるだけでした。そのうちにAくんはテストで良い点を取れない自分には価値がないと思うようになり、こんな自分を愛してくれる人はいないという思いを持って大人になりました。

 私たちは愛を求めて生きています。でもその愛が良い点が取れる、容姿が優れているといった条件付きの愛であったなら、私たちはその愛を手にしても心安らぐことができません。私たちは条件付きの愛ではなく無条件の愛に出会うことで本当の安らぎ、心からの安感じることができます。それでは私たちを無条件に愛してくれる存在はいるのでしょうか。いるとすればそれは誰なのでしょうか。そんな問いを持って今日の聖書が伝えるたとえ話に心を向けたいと思います。

 今日のたとえを聞いてそもそも疑問に思うことがあります。どうしてイエスはここでぶどう園において実のならないぶどうの木のたとえをするのではなく、いちじくの木のたとえをしているのでしょう。普通に考えたらぶどう園において実のならないぶどうの木のたとえをするのが自然というか、聞く方もスッと入ってきますよね。にもかかわらずイエスはぶどう園において実のならないいちじくの木の話をします。どうしてなのでしょう。これを考えることが今日のたとえをより深く味わうための鍵となります。聖書学者と呼ばれる人の書いた聖書の解説書である注解書によるとぶどう園の中にいちじくの木を植えるのはパレスチナでよくあることだそうで、いちじくに限らず実のなる木は何でも植えられるそうです。空いている土地の有効活動と言えるでしょう。

 思い起こせば幼児園の子どもたちと松之山に稲刈り体験に伺った際、田んぼの横には私の身長を超える大きな植物がたくさん生えていて、これは何ですかと農家のAさんに伺ったところ「マコモダケを植えているんですよ」という回答が返ってきたことを思い出します。「マコモダケ」とは中国の野菜で、名前だけ聞くとキノコの仲間を想像しがちですが、水辺で育つイネ科の植物マコモの若い茎が肥大化したものです。外皮をむいた白い部分を食します。見た目も食感もタケノコに似ています。クセがなく、生でも食べられますが、加熱すると甘みが増します。油との相性も良いので、炒め物や天ぷらにしてもおいしいです。たまに道の駅など産直野菜を売っている場所で見かけることがある野菜ですが皆さんは見かけたことがあるでしょうか。話は逸れましたが要するに「マコモダケ」は育てるのに手間がかからない野菜なのです。田んぼの傍に植えておけば放っておいても成長して秋になると収穫できます。松之山の農家・相澤さんは田植えの傍ら、土地の有効活用のためにマコモダケを植えていたということです。

 聖書に戻ってぶどう園にいちじくの木が植えられていたのも同じ理由からでした。おそらくぶどう園にはいちじくの木だけでなく聖書によく出てくるざくろやなつめやしの木なんかも植えられていて、そちらは順調に実がなり収穫できていたのだろうと想像いたします。ぶどうの木は一般的に手入れの難しい果樹と言われており、安定した収穫には剪定や誘引などの作業が不可欠です。一方で聖書に出てくるざくろやなつめやし、いちじくの木はそんなに手間のかかる果樹ではなく、ある程度放っておいても実がなります。だからぶどう園の主人は土地の有効利用のためにぶどう園にいちじくの木など手間のかからない様々な果樹を植えていたのです。

 ところがその中の一つ、いちじくの木がもう3年も実がなっていません。なつめやしの木などは放っておいても実がなっているのですから、こんな木を植えているのは土地の無駄だから切り倒してしまえと主人は園丁に命令します。しかし園丁はこう答えるのです。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください。」

 園丁の主な仕事はぶどう園の維持管理ですから、仮にあるぶどうの木に実がつかなければもっと実がなるようにお世話をしますとの発言が出てくるのは理解できます、しかしこの園丁はぶどう園のぶどうの木だけに愛情を注ぐのではなく、土地の有効活用として植えられていたいちじくやざくろ、なつめやしの木にも同様に愛を注いでいます。そしてさらには実をつける木だけでなく、3年もの間、実をつけることのないいちじくの木さえ切り倒されることを望まず大切に思い、愛情を注ごうとするのです。キリスト教会はこの園丁の姿にこの世で役に立たない人間、生産性のない人間に生きる価値などないと言い切ってしまう冷たい社会と戦うイエス・キリストそして神の姿を見ています。イエス・キリストそして神さまは実のならないいちじくの木を愛する園丁のように、私たちを実を結ぶ、結ばないにかかわらず無条件に愛してくださっているのです。

 園丁は最後に「来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください」と言っています。この言葉を聞くともしかしたら、無条件の愛と言ってもいつまでも実を結ぶことがなければ神さまにすらいずれは無価値と見限られてしまうのではと不安に感じる人もいるかもしれません。しかし安心してください。きっと来年実を結ばなかったとしても、イエスさまは実を結ばない人を切り捨てようとする冷たい社会と戦い、「あと1年待ってほしい。私がこの1年間愛を注いでみるから」と温かな心、慈しみの心でもって何度でも何度でも交渉してくださるお方です。神さまそしてイエスさまの愛は無条件に、そして絶え間なく私たちに注がれています。祈りましょう。

ここから先は

0字

キリスト教会の礼拝で行われている説教と呼ばれる聖書をテキストにしたメッセージを公開しています。

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?