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天の国はこんなところ

この記事では10月13日(日)の十日町教会礼拝におけるメッセージを公開しています。


聖書:マタイによる福音書13章44〜50(52)節

メッセージ本文

天の国が3つの仕方でたとえられる

 イエスのたとえ話に耳を傾けました。今日のたとえ話は今年の新潟地区の交換講壇に来てくださったY先生が選ばれたところでもあります。もうすでにここからはメッセージを聞いたし飛ばそうかなとも思いました。しかし聖書箇所が同じなら説教者が違くとも同じような話になるということではなく説教者それぞれに目の付け所が異なり、より福音の豊かさを味わうことができるかなと思いこの箇所をとりあげてじっくり取り組んでみることにしました。ここでは天の国が3つの仕方でたとえられており、今日の朗読箇所には含まみませんでしたが51、52節で結論が語られていますから本日は52節まで含めて話したいと思います。

①天の国は畑に隠された宝

 まずイエスは天の国を畑に隠された宝に似ていると語りました。「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」と言います。どういう状況なのでしょう。当時の人々にとって財産を畑に隠すのは一般的な方法でした。例えば旧約聖書ヨシュア記でアカンというイスラエル人は滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取ったことで主なる神の逆鱗に触れてしまいます。そのことについてイスラエルの指導者ヨシュアがアカンに問いただすと彼はこう答えています。ヨシュア記7章20節以下です。「アカンはヨシュアに答えた。『わたしは、確かにイスラエルの神、主に罪を犯しました。わたしがしたことはこうです。分捕り物の中に一枚の美しいシンアルの上着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ板があるのを見て、欲しくなって取りました。今それらは、わたしの天幕の地下に銀を下に敷いて埋めてあります。』」他にも例えばエレミヤ書に畑に宝を隠す話があります(エレミヤ41章8節)。そしてマタイによる福音書に記されたイエスのたとえ話の中にも主人から1タラントンを預かり土の中に埋めておいた僕が登場します(マタイ25章25節)。

誰にも知られていない宝を発見する

 畑の所有者は宝を畑の中に隠していました。しかし何らかの事情で-流行病であっという間になくなってしまったのか、それとも戦争が起き徴兵されそのまま帰らぬ人となってしまったのかは分かりませんが-畑に宝が隠されていることを知るものが世にいなくなってしまいました。そして宝が隠された畑は別の人物の所有物となり、そこでは雇われの農夫が働いていました。彼が畑で働いていると偶然宝を発見します。そうです。この人は宝を探していたのではなく、畑の所有者に雇われて働いていたらたまたま宝を見つけたのです。彼は宝を発見して喜び、それを主人には報告せず一旦土の中に隠して帰り、持ち物をすっかり売り払って畑ごと買うことにしました。この人は宝を持って家に帰るのではなく畑ごと買うことにしたのですね。ある解説書にはこの人はまず土地を取得することで正当な手順を踏んで宝を手に入れたのだとありました。律儀な性格だったということでしょうか。皆さんなら働いている時に偶然、誰にも知られていない宝を発見したらどうします?

ある青年から聞いた話

 前の教会にいた時にこの箇所から説教した時でしょうか。説教の後にある青年が話をしてくださいました。その方はゴミ処理場で働いているんですが、捨てられたゴミの中に偶然現金を発見したというのです。誰かのへそくりだったのでしょう。へそくりを入れた張本人が亡くなってしまい遺品整理としてゴミに出されたのか、それともそこにへそくりをしまったことをすっかり忘れてゴミに出してしまったのかは分かりません。とにかく現金の入った粗大ゴミが出され、それを処理している人がたまたま見つけたという状況です。その方は律儀に職場の上司に現金が入っていたことを報告すると、上司は「このことは誰にも言わないように」と言っておそらく着服してしまったということでした。今日語られたたとえは厳密にはその方の状況とは異なります。畑に隠された宝は現在の畑の所有者のものではなく以前の所有者のものです。そして偶然宝を見つけた雇われの農夫は宝だけを着服するのではなく畑ごと購入するという正当な手順を踏んで宝を手に入れます。彼はその後どういった生活を送ったのでしょう。宝だけを着服したのでなく畑を買い取ったわけですからおそらくそこで農夫を続けたのではないでしょうか。宝がどんな風に使われたのかはたとえからは読み取れず、私たちの想像力に託されています。彼はこの宝を自分のためだけに使うのでしょうか。それとも他者と分かち合うのでしょうか。イエスを通して畑に隠された宝のような天の国を知り、それを喜ぶ私たちは宝を自分のうちに秘めて生きるのでしょうか。それともこの喜びを分かち合って生きるのでしょうか。

②天の国は良い真珠を探す商人

 2つ目のたとえでは天の国は良い真珠を探す商人に似ていると言われています。良い真珠ではなくそれを探す商人に似ていると言われているところがたとえのポイント(核心)です。この人は良い真珠を探していると非常に高価な真珠を一つ見つけました。聖書では「高価な真珠」と訳されていますが原文では「非常に」という語がついています。この人は非常に高価な真珠、この世に二つとない貴重な真珠を見つけたので出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買うのだと言います。どうしてでしょう。莫大な利益が得られるからでしょうか。それが商人として当然のあり方だと思いますが、でもそのような利益を生み出す商人が天の国に似ているとはどういうことなのでしょう。イエスがこのたとえを語るよりもっと前、山上の説教として知られるイエスの言葉がまとめられたところでこう語っています。「あなたがたは地上に富を積んではならない。………富は、天に積みなさい。………あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」イエスは地上に富を積む生き方ではなく天に富を積む生き方を自分のもとに集まった大勢の人に勧めました。では天の国に似ている商人が持ち物をすっかり売り払って非常に高価な真珠を手に入れ莫大な利益を手に入れたら、彼はそこで得た利益を天に富を積むためにそれを用いるのでしょうか。

イエスと私たち

 ある説教者はこの商人とはイエスのこと、また良い真珠とは私たち人間のことをも示唆していると語っています。私には無い視点でなるほどなと思いました。旧約聖書の創世記で語られているように神によって塵から造られた人間はとても良い存在です。でも私たちは自分の価値が分からなくなり自分の良さを見失うことがあります。自信を失い、自らの価値を失いかけている私たちのもとに商人イエスが来て、これは世に2つとない非常に価値ある人間だとみなし、私たちを救うために自らの命を注いで十字架への道を歩むことを通して私たちを買い取ってくださいます。イエスは自らの十字架によって買い取った私たちを転売することはありません。イエスというぶどうの木の枝としていつまでも繋がらせて栄養を与えてくださいます。私たちはどんなに自分の価値が信じられなくても天の国の商人イエスの目から見て非常に価値のある存在であり、その私たちのためにイエスは命を注いでくださいました。

③天の国は網

 最後3つ目のたとえは先週の毒麦のたとえと同じ結論を持っているように思います。天の国は網に似ていると言います。ここで網と訳される後は地引き網漁で用いる大きな網です。地引き網ではたくさんの魚が取れますが、ゴミや食べられない魚も取れます。畑に麦と毒麦がいっしょに育っているように、網の中も良いものと悪いものがごちゃ混ぜになっています。それが仕分けられるのは世の終わりの時であり、それまでに人が一所懸命に仕分けようとするあり様は天の国には似ていません。それをするのは人の仕事では無く、今日の箇所によると天使の仕事だからです。私たちは自分の領分を超えた仕事ではなく私たちがやるように託された仕事、務め、使命を果たすことが求められています。

 最後、今日の朗読箇所には含まれていませんが51、52節を取り上げます。まず朗読しますのでお聞きください。

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

パラバルーンの練習にて

 イエスは弟子たちに「分かった?」と尋ね、弟子たちは「分かりました」と答えています。ここで言われている「分かる」とは単に理解することではなくて行動に移すことも含んでいます。昨日幼児園ではファミリーデーといって運動会がありました。年中、年長さんはパラバルーンといって円盤のような大きな布を使って出し物をしました。9月くらいから礼拝堂で練習する姿を見ていましたが、大きな丸い布をみんなで持って左右上下に動かすので先生が笛で合図をします。「いい、先生が笛を吹いたらバルーンを上げて、もう一回笛を吹いたら下げるの。分かった?」「はーい」とかけ声は良いんですけど、みんながみんな先生の言っていることを分かって返事をしているわけではないことは練習すれば分かります。1回目の笛でバルーンを上げずに下げてしまう子、2回目の笛ではバルーンを下げるだけなのにバルーンの中に入ってしまう子とさまざまです。その様子を見ながら先生たちは丁寧にこうしたらこうするんだよと一人一人が本当に指示を理解し、行動できるように導いていきます。

分かるということ

 イエスの「分かったか」との問いに対し、弟子たちそして私たちの「分かりました」は園児たちの「はーい」と同じかもしれません。まだ本当に分かったとは言えない段階、理解して行動に移せるかと言われれば怪しいのが正直なところです。それでもイエスは丁寧に天の国を分かってもらおうと伝え続けます。そしていつの日か分かる日が来るとイエスは私たちを信頼しています。このイエスの信頼に支えられて私たちが天の国のたとえが分かるその時、私たちはこの地上において天の国を生きられるようになるのでしょう。宝を手に入れその喜びを他者と分かち合い、世に2つとない良い真珠のために愛と命を注ぎ、網に良いものと悪いものがごちゃまぜであっても忍耐することができますように。

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キリスト教会の礼拝で行われている説教と呼ばれる聖書をテキストにしたメッセージを公開しています。

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